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帰ってきたカープの“永川さん”、勝てなかった時代の守護神のこれから

文春野球コラム ペナントレース2018

2018/08/07

 2016年に7度目のリーグ優勝を果たすまで、カープは25年間優勝から遠ざかっていた。この時期を「暗黒時代」と呼ぶ人もいるが、私はどうにもその呼び方が好きではない。それぞれの年ごとに希望も期待もあった。期待ががっかりに変わる場面は多々あったとしても、いや実際多々あったが、「今年こそは」と思って応援を続けた気持ちまでをも「暗黒」と括りたくはない。

 この勝てなかった時代、守護神と呼ばれた投手が永川さんだ。「永川勝浩」とか「永川投手」という呼び方よりも「永川さん」が一番しっくりくるので、以降この呼び方で呼ばせて欲しい。現在37歳の永川さんはカープの日本人投手の中では最年長である。その下が30歳の福井優也なので、その間の世代がゴッソリ抜けている。これもカープが勝てなかった時代の一つの象徴なのかもしれない。

永川さんが「守護神」だった頃

 永川さんは2002年に球団初の自由獲得枠でカープに入団した。北別府学の預かり番号である背番号「20」を付け、翌2003年にはカープ初の新人25セーブをマーク。その後2007年~2009年に3年連続30セーブ以上を挙げ、「守護神」と呼ばれるようになった。

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 永川さんが守護神だった時、ランナーを出しながら最終的には抑える姿が「永川劇場」などと呼ばれたりした。たまには抑えられないこともあった。そのたびに我々は胃が痛くなった。でも永川さんのカープ球団記録である通算165セーブという数字は、勝てなかった時代の我々の希望でもあった。永川さんはその後右足の内転筋損傷というケガを負い、中継ぎやビハインドでの登板にその役割を変えていった。

 そして2016年のリーグ優勝決定の瞬間。黒田博樹と新井貴浩が抱き合って涙ぐんでいることなど、その数年前の我々は予想だにしていなかった。しかし、もし優勝したらその輪の中にいるだろうと数年前の我々が予想していたはずの幾人かの顔は見えなかった。マエケンは海の向こうにいたし、栗原健太は仙台の地で頑張っていた。

 永川さんは……永川さんは、2016年シーズン初めには確かにマウンド上にいた。4月20日の対DeNA戦。それは永川さんのプロ入り通算500試合登板という記念すべき試合だった。ところが7回裏、4番手として一死満塁の場面で登板した永川さんは、ロペスに満塁ホームランを打たれた。結局5点を失ってイニングを終え、マウンドを降りる永川さんに記念の花束が手渡されたが、後にも先にもあれほど苦々しい顔をして花束を受け取った人を私は知らない。

 それから約1か月後に一軍登録を抹消されて以降、永川さんの姿を見なくなった。チームは快進撃を続け、それを支える新守護神・中﨑翔太の活躍にファンは沸き立ち、永川さんのことを思い出さなかった。

 翌2017年、永川さんは一度も一軍のマウンドに上がらなかった。カープが8度目のリーグ優勝に歓喜していた9月、永川さんは左膝のクリーニング手術を受けてリハビリを行っていた。翌月、同じ広島県三次市の出身であり、同学年のチームメイトであった梵英心がカープを去ることが発表された。正直、もう一軍のマウンドで永川さんを見るのは難しいのかもしれない……という考えが、ふと頭をよぎった。

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