映画、音楽、舞台――さまざまなカルチャーに影響を与えた、伝説の犯罪者カップル「ボニー&クライド」。2人はいかにして「国民のアンチヒーロー」的存在になったのか? 誕生からその最期、そしてのちの世界に与えた影響までを、文庫『世界の殺人カップル』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全3回の1回目/続きを読む)
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世界一有名な「犯罪者カップル」
1967年公開の映画「俺たちに明日はない」は、1930年代のアメリカ中西部を舞台に銀行強盗を働きながら逃避行を続ける男女の生き様を描いたアメリカン・ニューシネマの金字塔である。それまでハリウッド映画ではタブー視されてきたセックスと暴力をストレートに描写し、特に2人が一斉射撃を浴びて絶命するエンディングシーンは観る者の度肝を抜いたが、重視すべきは、本作が犯罪集団「バロウ・ギャング」を率いて数々の悪行を働いたボニーとクライドの実話を基にしている点だ。
凶悪で残忍と評される一方、その鮮やかな犯行手口から英雄とももてはやされた強盗カップル。彼らの生い立ちから出会い、犯罪の詳細、壮絶な死までの経緯を詳しく紹介しよう。
ボニーことボニー・パーカーは1910年、テキサス州ローウェナで3人兄妹の2番目として生まれた。4歳のときレンガ職人だった父が死去し、母の実家がある同州セメントシティへ転居。1925年に地元の高校へ進学する。成績は優秀で、特に文才に長け作文コンクールで表彰されることもしばしば。性格も基本的に温和だったが、同級生にからかわれると逆上する一面も持ち合わせており、クラスメイトが彼女の鉛筆を盗んだ際には、放課後相手を呼び出し容赦なく暴力を振るうこともあった。
1926年、16歳のときに同じ高校に通う2歳年上の男性と恋に落ち学校を中退、家を出て夫婦となる。が、夫は正業に就かなかったばかりか犯罪に手を染め、ボニーが18歳のときに銀行強盗を働き逮捕、刑務所に収監されたことで結婚生活は破局(ただし、籍は抜いていない)。1929年、実家に戻りレストランでウエイトレスとして働き始める。当初は真面目に仕事をこなしていたものの、代わり映えのしない暮らしに徐々に嫌気を覚え、将来への不安や孤独を日記に綴る毎日。
ちなみに、レストランの常連客の1人だった郵便局員のテッド・ヒントンは1932年にダラス郡保安官に転職し、結果的に1934年のボニーとクライドの殺害を実行したメンバーの一員となった。
一方、クライドことクライド・バロウは1909年、同州エリス郡の農家の5男(7人兄妹)として生まれる。優等生のボニーとは対照的に、その生い立ちは荒んでおり、1920年代初頭、第一次世界大戦後のあおりで多くの家庭が貧困に直面、バロウ一家も機会を求めてダラスに向かい、スラム街の「無料キャンプ場」でテント生活を送ることとなる。
働き詰めの両親に子供に躾をする余裕はなく、クライドはろくに学校も通わず、動物を虐待するなど、近隣住民から素行の悪い少年として認識される。
