禁酒法と世界恐慌の時代に、国民の鬱憤を晴らす“アンチヒーロー”として人気を集めた「ボニー&クライド」。だが、孫を育てる老巡査を殺害した事件を機に、世論は一変する。英雄から一転して悪魔の象徴へ――。ふたりはいかにして国民に愛され、そして見放されたのか。文庫『世界の殺人カップル』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全3回の2回目/続きを読む)
◆◆◆
犯罪者集団「バロウ・ギャング」を結成
出所後、クライドは囚人仲間のラルフ・ファルツやボニーと組んで、雑貨店やガソリンスタンドで強盗を働き始める。これはクライドが刑務所で受けた辱めに対する復讐のための武器や資金集めを目的としていたが、強盗を続けていた1932年4月19日、ボニーとラルフが銃器強盗未遂の容疑で逮捕される。結果、ラルフのみ実刑判決が下され刑務所送りに。ボニーは起訴に至らず、勾留されている間、得意な詩を書いていたそうだ。
ボニー釈放後、強盗を再開したクライドは同月30日、押し入った店の主人を射殺。刑務所で一度殺人を犯したことでタガが外れていた。このとき、店主の妻が現場でクライドの顔を見たと証言したことから、以降、クライドが実行犯、ボニーが共犯として警察に追われるようになる。しかし、その後も2人は行く先々で仲間を増やしながら強盗を重ね、いつしか彼らには「バロウ・ギャング」の異名が付く。
同年8月5日、クライドが仲間とともにオクラホマ州ストリングタウンで密造酒を飲み泥酔状態で帰ろうとしたところ、保安官と副保安官が近づいてきて尋問を始めた。対して、クライドらは容赦なく発砲し、副保安官を殺害、保安官に重傷を負わせる。
この警官殺しによりバロウ・ギャングは本格的な指名手配を受けるが、過酷な逃亡生活の中、クライドは同年12月に幼少期から家族ぐるみの付き合いがあったウィリアム・ジョーンズ(当時17歳)を、翌1933年3月には恩赦により刑務所を出た実兄バック(同30歳)と妻のブランチ(同22歳)を仲間に加え、ここからは基本的にクライド、ボニーを含む5人が行動を共にしていく。
4月13日、ミズーリ州ジョップリンの隠れ家に潜伏していた彼らを近隣住民が見つけ通報、急襲した警察と銃撃戦となる。ここでバロウ・ギャングは警官1人を射殺し逃亡するものの、隠れ家から大量の武器、ボニー手書きの詩、未現像フィルムが入ったカメラなどが見つかり、後に現像されたボニーが歯で葉巻をくわえ手にピストルを持ったり、ボニーとクライドが互いに銃を向け合う写真が新聞の一面に掲載され世間の度肝を抜いた。

