5人から3人に減った「バロウ・ギャング」

 クライドらが放った銃弾で装甲車の電気系統がショートし車の警笛が鳴り響くと、警察はこれを攻撃中止の合図と勘違いし発砲を取りやめる。バロウ・ギャングはこの機を逃さず、車で逃走。またも警察は一味を取り逃がすが、この銃撃戦でバックは頭部に被弾、脳が露出するほどの重傷を負う。妻のブランチも両目を負傷し視力を失った。

 レッドクラウンでの銃撃戦から4日後の同月24日、一味はアイオワ州テクスターの遊園地廃墟に逃げ込む。この際も住民に目撃され、現場を包囲した警察と銃撃戦となる。ボニー、クライド、ウィリアムの3人はなんとか徒歩で逃亡したものの、負傷していたバックとブランチはその場で逮捕。5日後の29日にはバックが搬送先の病院で息を引き取った(享年30)。

 3人となったバロウ・ギャングはその後も逃亡を続けるが、ボニーは右足の火傷も癒えぬこともあり、行き先々で「自殺の物語」「ボニーとクライドの真実の物語」「旅の終わり」などと題した自らの死を予感するかのような詩を書き綴る。その予感どおり、彼らの最期はすぐそこまで来ていた。

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 1934年1月16日、クライドは以前から復讐の的にしていたイーストハム刑務所を襲撃、2人の刑務官を射殺し積年の恨みを晴らす。この際、数人の受刑者を脱獄させ、そのうちの1人であるヘンリー・メスビン(同21歳)をバロウ・ギャングに加入させる。

 同じころ、テキサス州犯罪取締部は警察とは別に、数年前に解散させられていたテキサス・レンジャー(テキサス州公安局に属していたアメリカ最古の州法執行機関)の元捜査官フランク・ヘイマー(同50歳)にボニーとクライドを逮捕するよう要請する。