解剖室の光景と重なる刑事だった父の思い出

 支局に戻り、胃からこみ上げるむかつきを抑えて、変死の記事を黙って書いた。しばらくすると、

「なんだ、この臭いは!」

 という声が聞こえ、小さな騒ぎになった。死の臭いは何かを伝えるかのように、私の髪の毛や毛穴の奥まで浸透していて、上着を脱ぎ何度手を洗っても消えなかった。あの絶望的な腐臭は人間の死の重みを伝える警告なのだな、と改めて思った。一種の回心のようなものを得たと書くと大げさだが、少なくともそれからは亡者記事を丁寧に書くように心がけた。

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 解剖室の光景が忘れられない理由はほかにもある。それは刑事だった父の失態の思い出と重なるところがあるような気がした。

 私が小学生のころの話である。宮崎県警延岡署に勤めていた父は、大分県下で捕まった大泥棒を同僚と引き取りに行き、列車で護送している途中に、両手錠のまま逃げられてしまった。宮崎や大分を荒らしまわっていた容疑者は列車が延岡市に近い鉄橋に差し掛かった際、暑さに耐えかねて乗客が開けた窓の隙間に体を巧みに入れ、するりと身を川に投じたという。

画像はイメージです ©アフロ

 警察も新聞も大騒ぎだ。父は辞表を書く寸前まで追い詰められた。数日後、大泥棒は水死体となって見つかった。母方の実家である宮崎県高鍋町から心配した祖父がやってきた。警察の駐車場に土壁で接した、わずか二間の小さな官舎である。警察の車が壁にドンと当たろうものなら、家が揺れた。

 夫婦喧嘩の声が届くところに警察の留置所があり、逆に留置人のうめき声も聞こえるような我が家と3軒の平屋の官舎が、留置所を囲むように配置されて、さらに板塀で外の世界と隔絶されている。

ミスがあればこれほど苦しまなければならないのか

 大泥棒を逃がしたあと、父は祖父から、

「辞めるしかないとなら、うちで百姓をやれば良い。何とかなるわい」

 と告げられていたという。結局、父は刑事を辞めずに済んだが、それからかなりの間、巡査部長試験も受けられず、ヒラ刑事のままだった。

「あんたのお父さんは出世せんねえ」。父方の叔母に言われるたびに思った。薄給で働き、駐車場にセミのようにくっついた官舎につましく住み、ひとたびミスがあればこれほど苦しまなければならないのか。ねぶた課長の言葉ではないが、切に生きて、その結果がこうなのだ。 

 現代では、森友学園疑惑で公文書改竄を指示した財務省理財局長・佐川宣寿が国税庁長官に出世し、非業の死を遂げた職員の家族にまともな説明すらしないでいた。隠し、改竄し、語らず、逃げる――。そうした厚顔な高級官僚たちとは対照的に、下積みの公務員たちは辞表を胸に抱き、重く苦いものを背負って、きっぱりと責任を取らなければならない。その現実を、警察というのぞき窓から私は見つめていた。

次の記事に続く 「神戸連続児童殺傷事件」少年Aの両親を説得して独占手記をスクープするまで……週刊文春記者が参考にした、アメリカの殺人鬼の父親がとった行動とは