『亀たちの時間』(フランチェスカ・スコッティ 著/北代美和子 訳)現代書館

 4週間ぶりに会ったフラヴィアとロレンツォは、思い出の海岸で、何かのにおいと音に気付き、岩の間で死にかけている亀を見つける。何とか助けようとするが手立てのないまま時は過ぎ、やがて自分たちは〈助けようとしてみた〉と言いかわして亀を放す。まるで2人の美しい時間の終わりを象徴するかのように……。

 この表題作を含む15編を収めた短編集『亀たちの時間』は、イタリア人作家フランチェスカ・スコッティさんが2022年に母国で出版した本の翻訳版だ。スコッティさんの小説はこれまで多くの国で翻訳されているが、日本では初。ところが、実は本書の執筆時は日本で暮らしていた。

「2011年に日本に来て、京都で1年、名古屋で12年過ごしました。夫の仕事の関係で決まったことで、日本文化に馴染みがなく日本語もわからない私にとって、この滞在は最初、かなり負担でした。ただ執筆の面ではむしろ有益で、大きな影響を受けました。1つは言葉から遠ざかったがゆえに、何も知らない子どものようにこの世界を“再発見”できたこと。もう1つは五感の重要性に気づけたこと。特に、においと音への感覚が研ぎ澄まされて、文章はより理想に近づきました。私の小説において筋書きはそれほど重要ではなかったり明確ではなかったりします。大事なのは感情が伝わること、あるいは細部から何かが心に残る文章であることなのです」

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 そんな五感を揺さぶる描写から、読者は登場人物たちのリアルな心情を受け止めることができる。別れていく恋人たちの、心が離れた家族たちの、孤独な老人や少年の――。その多くが深い悲しみを抱えている。

「読者に傷ついてほしいわけではありません。でも、ただの気晴らしや現実逃避の小説として書いているつもりもない。提供したいのは“孤独に対する一種の解毒剤”。辛い体験をシェアすることで、あなたの悲しみが少しでも薄まり慰められたら、との思いです」

フランチェスカ・スコッティさん

 一方、同じくらいの吸引力でもって幻想の世界へも導かれる。お向かいに住む老女は家になり(「ナカノさん」)、チェロを弾くうち床は海になる(「鯨のひげ」)。

「そう、マジックリアリズムは好きです。ある瞬間、現実に小さなひび割れができて、そこから何かが垣間見える。イタリア文学のひとつの潮流と言えるかもしれません。特に私が影響を受けたのは、トンマーゾ・ランドルフィが描いた“拡張現実”。私たちが現実だと思っているところに留まっている必要はない、という世界観に魅了されました」

 本書には日本を舞台にした作品もある。しかし、それがいわゆる“日本的”でないことも魅力だ。“スコッティさんが見た日本”を窺い知れる面白さがある。

「日本に来たばかりの時に、不思議な“響き合い”を感じました。その理由は何だろうと考えた時、ひとつ思い当たるのは、自然との出会いです。私が暮らしていた地域では、丘の上には神社の森があり、川沿いには桜があり、庭や公園をきれいに手入れする人々がいた。イタリアには、そんな自然への接し方はありません。私は日本での自然との交流から、現代人が失っている“精神性”を取り戻せたような気がしています」

 昨年帰国し、今はミラノとヴェネツィアで暮らす。やはり日本滞在時に書いた「さゆき」という名の日本人女性を描いた長編がある。

「彼女は私たちを受け入れ、寄り添ってもくれるけれど、時に理解しがたくミステリアスで、掴みどころがない――。つまり、私が感じる日本の象徴なのです」

Francesca Scotti/1981年、イタリア、ミラノ生まれ。ミラノ音楽院卒業。法学で学士号を取得。2011年に作家デビュー。ほかに映画の脚本、ポッドキャストのホスト、音楽プロジェクトのインタビュアーなど領域横断的に活躍中。

亀たちの時間

フランチェスカ・スコッティ

現代書館

2025年9月17日 発売