翻訳不可能性

 以上の例は、実は、完全な翻訳は原理的に不可能であるという重要な原則を端的に例示しています。言語学では、伝統的に、言語表現の意味は「概念(内容)」であると考えられてきました〈注2〉。

 例えば、「犬」という言葉の意味は、イヌ(のカテゴリー)の概念ということですし、dogという言葉の意味もイヌ(のカテゴリー)の概念ということになります。このことは、たとえ言語間で表現が異なったとしても、同じイヌ(のカテゴリー)の概念を表している語である、「犬」(日本語)、dog(英語)、chien(フランス語)、Hund(ドイツ語)などはすべて同じ意味であることを示唆しており、これらはすべてイコールで結ばれることになります。

 しかしながら、多くの場合、ことばの意味には話者の捉え方も含まれていますので、単純に概念内容だけを比較して同じ意味だということができない場合が多々あります。イヌの例ではちょっと微妙すぎてわかりづらいので、わかりやすい例を見てみましょう。次の(24)のペアを見てください。

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(24)
 (a) フロントガラス
 (b) windshield(またはwindscreen)

 両者は同じもの(自動車の座席の前にあるガラス)を表しています。ですので、概念内容は同じだと言ってもいいでしょう。しかしながら、両者を同じ意味だと言うには抵抗感があります。そのように感じるのは、これらの表現に埋め込まれているものの見方(捉え方)が明らかに異なっているからです。

 日本語では車の前面にあるガラスの部分を位置関係と材質に着目して「前の(front)ガラス(glass)」と呼んでいます。一方、英語では、その機能(役割)に注目してwind-shieldまたはwindscreen「風よけ」と呼んでいます。同じものを指していても位置と材質に着目する日本語と風をよけるという役割に着目する英語という点で意味づけが異なるのです。

 この例からわかるのは、日本語を英語に、逆に、英語を日本語に置き換えてしまうと、もとの表現が持っていたその対象に対する捉え方が変わってしまうことがあるということです。繰り返し述べてきたように捉え方は表現の意味の一部ですので、捉え方が変わるということは意味自体が翻訳によって変わってしまうということになります。つまり、原理的に完璧な翻訳は不可能だということを示しているのです。


〈注1〉言語学では例文の前に記号(「*」「??」「?」)が付されることがあります。「*」はその表現がまったく容認されないこと、または非文法的であることを表し、「??」はかなり不自然であることを表し、「?」はちょっと不自然さがあることを表しています。
〈注2〉Ogden and Richards (1923)

次の記事に続く 『雪国』の冒頭部を英語にすると… 言語学で考える“内から見るか、外から見るか”