人間には事態を把握する方法が二つある? 日本語は世界を内側から見ていて、英語は世界を外側から見ている?

 AIで翻訳も通訳もできるこの時代に、わざわざ英語を勉強する必要はあるのか。言語学者・町田章さんの『AI時代になせ英語を学ぶのか』(文春新書)は、その疑問に認知言語学で答えている。本文より一部抜粋のうえ、「事態内視点」「事態外視点」という考え方を紹介する。

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ことばの自撮り棒

 最近は自撮り棒という便利な道具がありますが、以前は一人で旅行に出かけてたくさん写真を撮ってきたのに、自分の姿が一枚も写っていないなんていうことがよくありました。当たり前のことですが、写真は撮影者の視点から見えた景色を記録してくれますが、撮影者自身は記録してくれないのです。

 現在では自撮り棒という便利な道具が普及していますので、自分の姿を写真に収めることは比較的簡単になっていますが、なんと、ことばにはずっと昔からこの自撮り棒の機能が備わっているのです。

 唐突ですが、あなたがボクシングをしているところを想像してみてください。そして、そのイメージが頭に思い浮かんだら、それを簡単な図に描いてみてください。おそらく、多くの人が図23(b)のような図を描いたのではないでしょうか。中には図23(a)のような図を描いた人もいるかもしれません。

 本来、自分自身の姿は自分からは見えないものです。ですので、どちらがより現実に即した図、つまり、よりリアルな図かというと、もちろん、図23(a)の方のはずです。自撮り棒でもない限り自分から自分は見えないからです。

図23 事態把握の様式

 しかしながら、人間は、図23(b)のように自分を外から見ることもできます。現に、多くの読者の方々が、図23(b)のような絵を描いたはずです。これはメタ認知と言いますが、自分で自分のことを観察対象とするのです。ですので、どちらの図が正解とか不正解ということではなく、人間には事態を把握する方法が二つあると考えるのが正しい理解です。

 この事態把握の方法は、自己認識の在り方に関わっています。図23(a)は話し手が事態の中にいる自分視点で事態を見ている様式で、図23(b)は話し手が自分が関わる事態を事態の外から見ている様式です。

 一般に、前者を一人称視点、主観的把握、後者を三人称視点、客観的把握などと呼びますが、ここでは前者を事態内視点、後者を事態外視点と呼ぶことにします。理由は後で述べます。

 この事態把握の様式の違いに関して、言語学では、前出のラネカーや池上が以前から指摘しており、これに関する研究は非常にたくさんあります。ここでは専門的な議論には立ち入らず、ラネカーや池上の研究に触発されて筆者が考えたことを中心に探っていきたいと思います。

 この二つの事態把握の様式の違いがどのように言葉に表れるかを示す分かり易い例を見てみましょう。次の(79)は川端康成の『雪国」の冒頭部分とその英訳です〈注1〉。描いている情景は同じですが、何かが決定的に違うのがわかりますか。この文を発話している人(おそらく物語の主人公)はどこにいるのかを考えると違いがよりはっきりします。

(79)
 (a) 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
 (b) The train came out of the long tunnel into the snow country.

(79a)では、主人公は列車の中にいて、その列車が薄暗い長いトンネルを抜けると、主人公の眼前に銀世界が広がる様子を描いています。つまり、図24(a)のように自分から見えた世界をそのまま表現しているわけです。

図24『雪国のイメージ』(photoACより)

 それに対して(79b)では、主人公の視点はトンネルの外にあります。なんと、まるで自撮り棒でもあるかのように、話し手は自分が乗っている列車がトンネルを抜けてくるのをトンネルの外から見ているのです。これを図にしたものが図24(b)です。

 つまり、(79b)では、先ほどの図 と同じ現象が起こっているのです。図23(b)では、自分がボクシングをしているところをもう一人の自分がリングの外から見ていますね。

 したがって、(79a)は図23(a)と同じ事態内視点をとっていると考えられ、(79b)は図 23(b)と同じ事態外視点をとっているということになります。

 このように『雪国」の冒頭部分の比較から日本語と英語では視点の取り方が異なっていることがわかりました。そこで問題となるのは、これを一般化して日本語文化では事態内視点をとりやすく、英語文化では事態外視点をとりやすいと言ってよいかということになります。以下ではこの問題について具体例を挙げながら考えてみます。