竹中労さんと遭遇、清張さんが不機嫌に
1967年の大晦日に羽田を発って、メキシコシティ経由でハバナに着いたのは、翌68年1月1日だった。ハバナ空港に降り立ったとき、思いがけない人に会った。ノンフィクション・ライターの竹中労さんである。
この人には何度か取材をしたことがあり、むこうも私の名前を覚えてくれていた。初めての異国で、頼りになる味方に出会ったような気がして、挨拶をかわしていると、清張さんがしきりに私の尻をつつき、早くハバナホテルへ行こうとせきたてた。車の中で清張さんは不機嫌そうに、むっつりと押し黙ったままだった。
ホテルに着いて、ひとまず、落着ける時間になった。
「君はあの男、竹中労と知り合いなのかね」
「ええ、『週刊文春』編集部のとき、芸能関係の取材などで、よく話を聞いた人です」
「君、ああいう悪いのとつき合ってはいけないよ。文壇ゴロじゃないか」
「たしかに何事によらず、かなり過激な発言をする人ですが、そんなに悪い人とは思いませんけれど……」
「ジャーナリストはね、筋の悪い人間とつき合ってはいけないんだよ。ジャーナリストはいろんな人に会うわけだが、長くつき合うのは、筋のいい人間にしぼっていかなければいけない。筋の悪いのと親しくしていると、目が曇ってきて、真実が見えなくなる。そうなったら、ジャーナリストとして失格だよ。君はまだ若いのだから、よく気をつけなさい」
こんこんと諭された。
そのときは、竹中労さんがどのように「筋が悪い」人なのかについての説明はなかった。清張さんの口ぶりの激しさから、竹中さんは何か、清張さんの逆鱗に触れるような文章を書いたに違いない、と思った。
肝心のカストロ対談は難航した。というより、何の手応えもなかった。カストロ首相の窓口と指定された事務所に、朝夕、顔を出して対談の催促をするのだが、話は分かっているが、まだ何の連絡もない、の一点張り。その間、清張さんはキューバの新聞記者のインタビューを受けたり、キューバ国営テレビにも出演した。
清張さんは堂々と英語で応対した。いずれもハバナ文化会議の印象はごくあっさりとすませ、もっぱらカストロ首相について語り、自分はそのカストロ首相と近々、対談することになっている、日本の国民的雑誌「文藝春秋」に対談が掲載されれば、必ずキューバにとって大きなプラスになると信じている、と熱を込めて話した。当局へのアピールだった。
清張さんの英語は、発音は日本風だが、とにかくよく通じた。自分の考え、意志を相手に理解させずにおくものか、という迫力があった。清張さんのお宅へ原稿取りに行くと、ときどき若いアメリカ人女性らしい人と玄関ですれちがうことがあった。英会話の家庭教師のようだった。何年つづいたのだろうか。その特訓の成果を、私はキューバテレビのスタジオで、目のあたりにしたのである。

