ある日、ネット上に突如書き込まれた「宣戦布告」。そこには、83人の名前、住所、職場……あらゆる個人情報が晒されていた——。SNSで苛烈な誹謗中傷を行う人々への復讐から幕を開ける塩田武士氏の小説『踊りつかれて』のテーマは、「週刊誌の罪×SNSの罰」だ。
同作で直木賞にノミネートされた塩田氏が作家になるまでの道のりを、有働由美子氏と語り合った(初出「文藝春秋」2025年8月号)。
(全2回の2回目/はじめからを読む)
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事務所に入って、一生分スベった
塩田 芸人の真似事をして事務所に入り、一生分スベって、次は劇団に入るものの何かが違うと感じた。表に出る人って、舞台に出て一言二言で「コイツはおもろい奴や」と気づかせるパワーがあるんです。僕にはそれがない。どうしたらエンタテインメントを作って生きていけるのかと考えていた時に出会ったのが、藤原伊織さんの小説『テロリストのパラソル』(講談社)でした。そこから毎日、小説を書いてきました。
有働 そこが素直ですよね。
塩田 自分の力を疑っているからです。人にたくさんものを聞くのが僕の作風ですが、まったく自分を信用していないことの裏返しです。
有働 どういうことですか?
塩田 僕は新人賞を獲るのに12年かかりました。その間、才能がないかもという自問自答をしてきたわけです。一方で若い子が次々に賞を獲っていく。きらびやかな才能って一気に駆け上がるじゃないですか。
有働 階段を2、3段飛ばしで。
塩田 でも、そうはなれない僕が、小説の世界でどう戦えばいいのかを考えて、最終的にたどり着いたのが、「しぶとい人間が一番強いのではないか」という答えでした。
記者は限界だった
有働 小説にも「諦めない人間」と出てきますが、まさにご自身が。
塩田 それしかないんです。僕は人や現場を取材して、色々と教えてもらって、ようやく気づきを得られる。経験者やプロの力を借り、結果として作品の土台が強くなります。だからこそ、作品が30年持ってほしいと思い、より普遍性を追求することで、流行に左右されなくなる。
有働 塩田さんは徹底的な取材をすることで知られていますが、小説家は諦めて、記者として腕を上げていこうとは思わなかったのですか?
塩田 いえ、記者は限界でした。新聞はどうしても表に現れる事実を書く仕事が中心です。その裏に隠された、人間の心の動きや機微など、記事に書けないことが8割はある。僕はその8割が書きたかった。記者業は10年が限界でしたね。
有働 塩田さんの幼少期のエピソードで衝撃的だったのが、お母様が寝る前に松本清張の小説を読み聞かせしていたというお話です。

