物価が150倍以上になったローマのハイパーインフレ

 歴史的に見て、無節操にお金を刷ることで豊かになった国はひとつもない。

 貨幣供給量が、生産される財やサービスの量(実体経済)よりも速いペースで増えるとどうなるのか? ローマの史実が伝えるように、物を仕入れて売る商人たちは、貨幣価値が目減りした分を補うため、物を販売する際の価格を吊り上げていった。そう、ハイパーインフレーションの発生である。ハイパーインフレを月間50%以上の物価上昇と定義する学者もいるが、本書では急速でコントロール不能な物価上昇と定義したい。

 はっきりとしたデータはないものの、貨幣価値の下落から想定して紀元後200~300年の間にローマ帝国の物価は1万5000%上昇したと予想されている。つまり、100年の間に物価が150倍以上になったということだ。3世紀に入って皇帝が頻繁に交代し内戦が繰り返されると、ローマ帝国の統治能力の低下を招き、地方では行政の混乱や腐敗につながった。

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 貿易赤字だけでなく財政赤字も膨張し続けるさなか、301年にディオクレティアヌス帝は「商人の強欲」を糾弾して最高価格に関する勅令を出し、ワインや穀物、衣類など1000以上の商品やサービスの価格に上限を設けた。ハイパーインフレという異常事態に対する、独裁的権力による最後の抵抗でもあった。

 だが、法定価格が生産コストを下回っていたため生産者や商人は商品を市場に出すことをためらい、結果として深刻な品不足が起き、商品は闇市場に流れることとなった。

 さらに政府が悪手だったのは、徴税と軍事体制の安定化を目的に、市民の身分や職業を固定し、職業選択の自由を廃止する法改正を行ったことだ。

 実は共和制末期からローマで普及していったコロナトゥス制は、小作人(゠コロヌス)が大土地所有者から土地を借りて耕作する農業形態で、彼らは契約期間のみそこで働いて土地を離れる自由を持っていた。ところがこの法改正により小作人は土地を離れる自由を奪われ、土地とともに売買される存在となった。しかもそれは世襲制で、後に中世ヨーロッパで「農奴制」が定着した理由であると考えられる。都市の職人や公務員も、職業の世襲や離職の禁止が義務付けられ、社会全体の停滞を招いてしまった。

 社会不安がローマ帝国内に蔓延し、政治に対する人々の不満も高まり、帝国への忠誠心も失われていったのである。

帝国の末期症状

 こうしてローマの内部崩壊が始まると、外部からの侵略に対する防御力が脆弱になってしまう。ひとたび辺境の防衛線が突破されれば、皮肉なことに整備された道路網が逆に反乱軍を帝国の懐深くまで招き寄せることになった。ゲルマン系民族などが勢力を伸ばし、ローマ帝国の領土への侵略を幾度も繰り返した。

 ローマ帝国は、395年に死去したローマ皇帝テオドシウス1世が、2人の息子に西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に二分して継承させ、西ローマ帝国はイタリア半島のローマを、東ローマ帝国はコンスタンティノープルを中心に支配する形になった。領土があまりにも大きくなり過ぎたローマ帝国を二分するのは、ひとつの合理的な判断だったのかも知れない。コンスタンティノープルとは、現在のトルコのイスタンブールに位置する。