あれほど下痢をした人間に、今度は、詰まる苦痛まで天は与えるのかと、なさけなかった。あんまりだと思った。
腸閉塞は、1回なると、なりやすくなる。これまで3回、入院した。入院まではせずにすんだけれど、痛みに苦しんだという回数は、数え切れない。というより、日々その痛みを感じていて、それが大きくならないよう、つねに気をつけている状態だ。つねに暴君の機嫌をとりつづけているようなもので、とても疲れる。それでも暴君が自分のお腹なのだから、離れることも、反乱を起こすこともできない。
“修行僧より厳しい”摂生の日々に舞い戻る
かつて潰瘍性大腸炎になったとき、食べられるものが極端に減った。手術するまでの13年間、私は豆腐と半熟卵と裏ごしした野菜と栄養剤(病院で処方されるもの)で過ごした。ある意味、修行僧より厳しい戒律をずっと守って摂生していた。
それだけに、手術をして、ある程度、何でも食べられるようになったときの喜びは大きかった。13年ぶりに食べるケーキのおいしさたるや! 13年ぶりに食べるキノコ類のおいしさたるや! 13年ぶりに食べるタケノコやゴボウやイカやタコや……。
それが、また摂生に逆戻りということになった。腸に詰まりやすいものは食べないほうがいいわけだが、それは潰瘍性大腸炎で食べてはいけないものと、よく似ていた。食物繊維が豊富なものとか、脂っぽいものとか、刺激の強いものとか。
いったん解放されたと思ったのに、また元の木阿弥というのは、なんともこたえるものだ。「プリズナーNo.6」というイギリスのテレビドラマで、主人公は何者かに拉致され「村」に閉じ込められる。そこから何度も脱出を図るのだが、どうしてもうまくいかない。ある回では、何かの箱(棺桶だったかもしれない)の中に隠れて、「村」を出る。外から聞こえてくる音に注意していると、だんだん都会の音になっていって、ついに聞き慣れたロンドンのビッグ・ベンの鐘の音が! 主人公は喜んで、箱の中から飛び出す。ところが、そこは「村」の中なのだ。上田秋成の『雨月物語』の中の一編「吉備津の釜」のラストも似た展開だが、この絶望感に私はずいぶん共感したものだ。
中毒患者のように痛み止めの注射を懇願し……
それよりなにより困るのが、痛みだ。「三大激痛」とされる病気は、心筋梗塞、尿路結石、群発頭痛だが、他にもいろいろ候補があり、腸閉塞を四つ目に選ぶ人もいるそうだ。もちろん、腸閉塞にもいろいろ程度があり、それによって痛みもちがう。ひどくなると手術ということになるが、私はそこまではいっていない。もっとも、もともと手術が原因なので、手術で治しても、その手術が原因でまた腸閉塞になる可能性があり、どうどう巡りなので、あまり医師は手術したがらないそうだ(最近は、腸閉塞になりにくい腹腔鏡手術が行われるようになってきた)。
ともかく、私は最高度に痛い腸閉塞は経験していないと思う。それでも、そうとう痛い。入院するレベルのときは、痛み止めの注射をしてもらわないと、とても耐えられない。ところが、この注射は中毒になるとかで、そうそう連続して打ってもらえない。しかし、こっちはなにしろ痛いから、あとの中毒のことなんて考えていられない。今の痛みをどうにかしたくて、看護師さんに注射を懇願することになる。すでに中毒患者のようだ。
