文春オンライン

連載むらむら読書

児童虐待の記述を読むと無力感がむらむら――犬山紙子「むらむら読書」

2018/08/07
note

 今私は児童虐待がなくなるようにと微々たる力ながら動いています。タレントさんたちと「#こどものいのちはこどものもの」というチームを組みメディアに出てるからできることを意識しつつ活動(票田であることをアピール、ハッシュタグに集まった意見を全て厚労省に届けるなど)。お金や制度が整っていたら助かる子どもの命があるのなら大人が動かなきゃどうする、という話でして。

©犬山紙子

 でもですね、情けないことに私、児童虐待問題に対してど素人なのです。そこで動こうとするには、これまで取り組まれてきた専門家の意見を読みつつ勉強しなければいけない。たくさんある虐待関連の本も自分なりに今読んでいるわけです。

 ただ、虐待の記述を読むのはキツイものがあります。中でも石井光太さんの『「鬼畜」の家』はどうしようもない無力感が自分をむらむらと襲いました。3つの虐待事件を加害者の家族や友人まで丁寧に取材して書かれたこの本。虐待された子供の写真も掲載されていますし、その内容も細かに記載されておりとてもじゃないけど冷静には読めません。そして「ただ虐待した親を鬼畜と切り捨てる」だけではいけないと痛感します。加害者も被害者の側面がある。どうしようもない負の連鎖がある。行政がルールを作ってもそこからはみ出す人はいる。様々な生きづらさを抱えた人に対して社会は知識がない。孤立した人を救う手立てがかなり難しい。

ADVERTISEMENT

 虐待親にも子供を愛した形跡があったり、本人は「子育てを頑張っていた」と思っていたりすることがあり、読み進めると鬼畜だと断定した方が楽な私たちが認めたくない親の実態が出てくるのです。

 私たちが虐待のニュースに触れた時、辛く傷つき激しいストレスを感じます。だから気持ちのぶつけどころとして人となりもしらない加害親への激しい憎悪が出てくるのでしょう。もちろん加害親の責任は重大。しかし大人として救えなかった自分の無力さ、何もできないことで自己肯定感が下がるのを無意識にカバーしているのかもしれません。

 石井光太さんご本人にお話を伺ったら、支援する側にも多様性が必要だとおっしゃっていました。そりゃそうだ、被害者も多様性があるんだから、支援方法も多様性が必要。

 となると自分の得意なことでやれそうなことから始められるわけです。

 結果、石井さんの本を読み激しい無力感、からのさあ何か自分なりにはじめようかという気持ちがムラムラとわいてきて、取り急ぎこうやって原稿を書いてみるのであります。

児童虐待の記述を読むと無力感がむらむら――犬山紙子「むらむら読書」

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文學界をフォロー