にわかには信じがたいが、当時の記事によれば、「M資金」にまつわる詐欺に関与する金融ブローカーは数百人どころか、全国で3万人にも上ったという。今日の振り込め詐欺にも匹敵する一大犯罪ビジネスである。
この頃ともなると、巨額資金話が持ち込まれる先は名だたる大企業がもっぱらとなっていた。
高度経済成長を実現し、ある程度の豊かさが社会に行き渡った時代において、戦勝国が隠し持つ秘密マネーといったストーリーは、いよいよ経営者を引きつける魔力を発揮し始めたのである。
全日空に舞い込んだ500億円の融資話と児玉誉士夫
その走りとして有名なのが、全日本空輸(現在のANAホールディングス)を巡るスキャンダルだ。一連の話は1969年5月に大庭哲夫が社長に就任した直後から始まる。
当時の航空業界は官民の境界など無きに等しい原初的世界だ。そもそも日本航空はまだ政府出資の特殊法人だったし、朝日新聞航空部出身の美土路昌一の尽力により名古屋鉄道や富士製鐵(後に新日本製鐵、現在の日本製鉄)といった大企業を発起人に集め、1952年に前身の日本ヘリコプター輸送として設立された全日空もまた監督官庁の強い影響下にあった。そんな業界において、大庭はもともと航空庁の役人であり、1951年に長官となった後、早くも翌年に常務として日本航空に天下るという経歴を歩んでいた。
この時、大庭を引き入れたのは航空庁で初代長官を務めた後に社長として日航に天下っていた松尾靜磨である。日航は全日空の大株主でもあり、松尾はその取締役をも兼務していた。「航空界の天皇」と呼ばれた松尾は、ほかに右に出る者のいないまさに大実力者だった。
1967年、その指示によって大庭は副社長として全日空に派遣される。前の年、同社は相次いで重大事故を起こしていた。2月には羽田沖で着陸進入中のボーイング727型機が墜落し乗客乗員133人全員が死亡していたし、11月には悪天候下の松山沖でYS-11型機が墜落し乗客乗員50人全員がやはり命を落としていた。この立て直しのため、役所から天下った日航社長が、これまた天下り役員を出資先の全日空に送り込んだという構図だ。
大庭は社長へと昇格した直後から挨拶回りに忙しかったが、ある日、東京・内幸町にある帝国ホテルの1室にひとりで向かった。そこで会ったのは、かの児玉誉士夫である。日本航空にも相談した上での密会だった。大庭が児玉に会うのはこれが初めてだ。
