かつては“馬車の鉄道”だった
東京馬車鉄道は1872年に開業したばかりの新橋駅の駅前から銀座の真ん中を横断し、お江戸の中心日本橋までを結んでいた。まだ電車ではなく馬が牽く。
それでも1875年にガス灯が灯り、煉瓦敷きの道を馬車鉄道が往く。近代ニッポンの夜明けは銀座からはじまったのである。
都電1系統の廃止は1967年のことだ。この年から5年かけて都電は順次廃止されてゆくのだが、その第一弾が1系統などの廃止であった。
東京で初めての路面電車は、いち早く廃止されたのだ。銀座通りはクルマ通りも人通りも多く、路面電車は邪魔者になったのだろう。
ちなみに、銀座の歩行者天国は都電廃止後の1970年からである。
銀座通りを抜けると、コレドに三井タワーの京橋、そして三越前の日本橋。ここからは中央通りと呼ばれる通りを走っており、地下には地下鉄銀座線が通っている。
銀座線の開通は昭和初期。約30年間は、地上に路面電車、地下に銀座線という状態が続いていた。
都電時代の最末期、1963年には日本橋の真上を通る首都高も開通している。その翌年には新幹線も通った。
1960年代は、クルマが増えて都電が廃止へと進む一方で、高速道路や首都高が次々に登場するという、まさに時代の変わり目の狭間のような時代であった。
まだ青果市場があった秋葉原
今川橋の停留場を過ぎると山手線の高架をくぐって神田駅前停留場、そして須田町へ。須田町停留場は南北・東西の都電主要系統が交差する要衝だった。須田町のすぐ北の万世橋を渡ったら、原色も鮮やかな秋葉原——。
都電末期、1960年代の秋葉原は、すでに“電気街”として形を整えつつあった。1950~1960年代、“三種の神器”と呼ばれた家電製品が広く普及していった。そんな時代背景のもと、秋葉原には白物家電の販売店が集まるようになったのだ。
ただ、まだまだアキバカルチャーなどもない時代のこと。秋葉原駅前のUDXやダイビルは青果市場だったし、ヨドバシカメラは貨物駅。武骨な一面も色濃く残る、戦後の秋葉原であった。




