店舗や自宅の片付けをしながら被災者支援に奔走
驚くべきことに、輪島では1960年にも大火があり、この時は反対側から迫った火が日吉酒造店の手前で止まった。2度も大火を免れたのだった。
だが、今回は自宅部分が揺れで半壊状態になり、とても屋内で過ごせたものではなかった。四つの蔵も全て潰れるなどした。
その後は、「損壊しなかったホテルで被災者を受け入れている」と聞き、身を寄せた。しかし、津波に関する警報や注意報が解除されると、出なければならなかった。日吉さんは金沢市内の妻の実家を頼って避難する。両親は金沢の親類宅へ身を寄せた。
こうして家族の身の置き場を確保した後、日吉さんは単身、輪島へ通った。店舗や自宅の片づけ、被災者支援に取り組んだのだ。属していた商工会議所の青年部には全国から支援物資が集まり、仲間の事務所に寝泊まりしながら受け入れ作業を行った。そうした日々が2~3カ月間続いた。
蔵や酒造設備を全て失った日吉さんは、先が見通せなかった。「火事で燃えていたら、廃業していたと思います」と語る。
そもそも清酒の消費量は年々減っていて、経営の苦しさが増していた。「どうやって続けていこうか」と話していた時だった。
それなのに、蔵を建て直し、設備は全て新しく入れなければならない。物価高騰で再建費用を賄えるかどうか。米不足で酒米の供給も不透明になっていた。不安しかなかった。
しかし、美味しい酒を造り続けたいという思いは強かった。「穏やかですっきりとした飲み口の食中酒です。食事と一緒に楽しめるお酒を造り続けたいと考えていました」。
酒造業界の仲間からのアドバイス
その悩みを見透かしたかのように、東日本大震災で被災した蔵などから「焦るな」「焦ってもいいことはないぞ」とアドバイスが届いた。「災害補助や支援制度は時間が経過するに従ってアップデートされ、より良いものが出てくることがある。また、被災から4~5年は復興特需があり、勘違いして拡大生産したら大変なことになる。被災から5年後以降をどうするか考えなければならない」などと言われたのだ。
日吉さん自身、蔵の再建は焼失した地区の復興と一体的に取り組まなければならないと考えていた。自分だけ先に再建し、後から方向性を合わせてほしいと言われても難しいからだ。それには時間がかかる。
不幸中の幸いで、酒造業界のバックアップがあった。石川県内でも南部の加賀地方で被災を免れた蔵が、能登の被災した蔵と共同醸造を行うことになったのだ。加賀の蔵が自分の施設を一部提供し、被災した蔵の醸造に手を貸してくれる。日吉さんは小松市と白山市の二つの蔵に受け入れてもらった。共によく知っている蔵だ。しかも、「再建できるまで寄り添う」と言ってくれた。日吉さんは「負担が大きいだろうに」と心苦しく思いながらも、助けてもらっている。
こうして長期戦の腹を決めた日吉さんに、別の大役が振られた。
撮影=葉上太郎
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