船にも「電機屋さん」がある。船舶には電気設備があり、漁船は魚群探知機やGPSなども必需品だ。船の電機屋がいないと沖へは出られない。

 能登半島地震では漁師が苦境に陥った。港が隆起し、荷揚げ施設も被災するなどしたため、今もまだ漁に出られない船がある。漁の復活には船の電機屋の力が欠かせないが、こちらもシビアな現実に直面している。(全3回の3回目/最初から読む

輪島港は石川県随一の漁港だ。漁船が多く、二重係船が当たり前 撮影=葉上太郎

港では漁師が「地盤が隆起して船を動かせない」と…

 いきなり地震が起きた。県職員の息子はすぐに職場へ向かおうと玄関へ急ぐ。その時、さらに激しい揺れに襲われた。息子がバーンと倒れて、妻も倒れる。沖崎俊彦さん(63)は重なるようにして倒れ込んだ。2024年1月1日午後4時10分、石川県輪島市。市内では震度7を観測する地区もあった激震だった。

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沖崎俊彦さん(輪島市、日東電機事務所)

 玄関から外に出ると、目の前に建っていた2階建て倉庫がぺチャンコになっていた。沖崎さんの軽トラックと息子の乗用車が下敷きになり、かろうじて妻の乗用車だけ助かった。

 自宅は海岸から1.5kmほどの鳳至(ふげし)川沿いにある。大津波警報が出たので3人で高台へ逃げた。夜、朝市通りの方が炎で赤く染まり、3人は1台だけ助かった車で朝を待った。

 翌日、輪島港へ向かった。沖崎さんは港に面した輪島崎町の生まれだ。隣の海士(あま)町と共に約200隻の漁船を擁する石川県随一の漁師町である。亡父の代から船の電機屋「日東電機」を営んでいて、3階建ての実家兼店舗が港の目の前にあった。母親は高齡者施設に入っていて誰もいなかったが、シャッターが曲がり、ガラスは割れていて、地面も起伏していた。後に鉄骨がゆがんでいたと分かる。

 港では漁師が「地盤が隆起して船を動かせない」と話していた。海底が1.5mほど上がり、船の腹が底に着いていた。

貝殻がついているのは、隆起の前に海だった部分。対岸に輪島崎町が見える(輪島市)

ポータブル電源で自宅に寝泊まり

 次の日、妻の実家へ救出に向かった。義母が輪島市の山間部で独り暮らしをしていて、元日は金沢から妻の妹の一家4人が帰省していた。だが、道路が寸断されて身動きが取れなくなっていた。妻の友人から「田んぼの(あぜ)道のような場所なら通れる」と聞き、道なき道をたどる。ようやく到着した妻の実家では母屋が潰れていた。2007年3月に起きた前回の能登半島地震で新しくしたリビングはかろうじて倒壊を免れ、5人はたまたまそこにいて助かったのだという。

 沖崎さんはこの日、輪島を脱出した。停電や断水は解消される見込みがない。息子が金沢市の隣町でアパートを借りていたので、妻と息子の3人で10時間以上かけて向かった。

 ゆっくり避難を続けることはできなかった。妻が幼稚園で働いていたからだ。輪島の自宅へ戻り、ポータブル電源などで自宅に寝泊まりした。

 1月末には高齡者施設に入っていた実母が亡くなった。葬儀はできず、金沢に運んで荼毘(だび)に付した。「いろんなことが立て続けに起こりました」と沖崎さんは話す。