被災当初の事業者を追い詰めた“20年縛り”の壁
沖崎さんは店舗の再建を考えた。「4000~5000万円かかると見込まれました。市役所に相談すると、当時の制度で補助を受けるには20年間同じ場所で事業を続ける必要があり、売却も譲渡もしてはならないと言われました。『20年後は80歳かぁ、後継者もいないのに無理だな』と思いました」と沖崎さんは話す。
漁師が海に出られなくなっていたので、発災から半年間は仕事がなかった。
店の再建は無理、仕事もない。「心が折れかけましたが、根が楽天的なので、なんとかなると思いました」。生計を助けたのは、船ではなく家の電機屋としての仕事だった。
大学へ進学した沖崎さんが輪島に戻ったのは1988年だ。父親の事業を継ぐべく、魚群探知機を造る会社で3年間修業して帰郷した。漁船にそうした機器の導入が進んでいた頃で忙しかった。従業員も4人いた。
しかし、海洋環境の変化や資源減少などの影響を受けて、漁業は厳しくなっていく。漁師も減り始めた。
冬、輪島の海は荒れる。なかなか漁に出られなくなり、船はメンテナンスの時期になる。ところが、船が頑丈になり、機器の性能も上がって、メンテナンスの仕事が減った。「どうしようかな」と考えていた時にひらめいた。約20年前のことだ。
窮地を救ったマリンランプ事業
店を手伝っていた妻に「船の作業灯は家につけられないの?」と尋ねられたのだ。電圧が違うが電球を変えればいい。インテリアに興味があった沖崎さんは即座に反応した。無骨で風雨に強い船舶用照明器具を玄関などに取り付けられないかと研究した。店を訪れたメーカーの社長も賛同し、マリンランプと名づけて売り出した。
だが、地元での評判はいま一つだった。漁師に話すと、「俺の新しいうちに船で腐った電灯をつけるのか」と怒られた。新品を使っても漁師にはそう見えてしまうのだ。そこで、北陸地方の設計士にダイレクトメールを送り、ホームページでも宣伝した。かなりの反響があった。酸化の黒ずみも「家族と一緒にランプも成長する」と説明すると、納得する人が多かった。大手電機メーカーが類似品を売り出すほどだった。
漁業環境はその後も悪化し、本業の従業員はゼロになった。「一方、マリンランプが収益の5割を占めるようになり、被災後は8割になりました。この2年間はさらに売り上げが増えています」と沖崎さんは話す。
このためマリンランプで生計を維持しながら、本業の再開を目指した。
自宅では発災から半年後に水道と電気が使えるようになった。目の前で潰れた倉庫は解体した。港に面した実家兼店舗も解体を決めた。替わりに自宅の倉庫跡地にコンテナを置いて事務所にしようと計画した。
そんな沖崎さんをまた災害が襲う。地震の発生から9カ月後、豪雨災害に見舞われたのだ。
「土曜日の朝でした。自宅にいると、コーン、コーンと音がします。妻が窓を開けると、目の前を流れる鳳至川があふれていました」。コーンというのはプラスチック製プランターが流されて家に当たった音だった。





