「仕事を辞めてどこかへ行きたい」
濁流の勢いが激しく、沖崎さんは「家が流される」と思った。妻の手をしっかりと握り、既に浸水していた玄関を出て高台へ向かった。一帯は深さ2mほど浸水してしまう。厚さ約30cmの泥が残された。
元は田んぼだった土地だ。父親が50年ほど前に買い、整地して倉庫を建てた。沖崎さんが家を新築したのは約30年前だ。氾濫する土地とは知らなかった。だが、過去にも同じような水害があったと聞き、「また、浸水するかもしれない」と考えると気が滅入った。
その後は7カ月間、公民館や小学校の体育館で避難所暮らしをした。床や壁をはがした家に戻ると虚しくなる。「仕事を辞めてどこかへ行きたい」と思うようになった。友人の中には金沢へ転居した人もいた。
そんな時、泥の片づけに大勢のボランティアが来てくれた。一緒に作業をするうちに元気が出た。港では「お前がおらんと困るわ」と言ってくれる漁師もいた。沖崎さんは次第に意欲を取り戻す。
港では水深を確保するために重機が海底の岩を砕いて浚渫を続けていた。このため、漁船を港の外に出すことができ、少しずつ修理が進んで漁に出られるようになっていった。沖崎さんはトレーラーハウスを事務所替わりに自宅の倉庫跡へ置き、ワゴン車に工具を積んで港へ向かい始めた。
こうして本業を再開していった。ただ、将来が見通せない状況に変わりはない。漁師とは運命共同体なのに、「輪島崎町で主力だった小型巻き網漁船は今もまだ出漁できていません」と話す。
能登に伝わる「やわやわと」の精神
港で70代の漁師に会った。岸壁につながれたままの巻き網漁船を前に、遠い目をして海を眺めていた。
「地盤の隆起で海面が低くなったので下に桟橋を設け、水揚げはベルトコンベヤーで行われています。刺し網漁や底引き網漁ならこれでもいいのですが、私が乗っていた巻き網漁船は一度に10tも20tも水揚げするので能力が足りません。新しい荷さばき施設ができるのは5年後。乗組員は暮らしのために別の仕事をしていて、時間が経つほど海に戻れなくなります。操業には19人が必要なのに、既に半数しか集まる見込みがありません」
輪島港全体でも漁獲量は被災前の4割程度に落ちていて、沖崎さんは「廃業した漁師もいます」と話す。
船の電機屋の全国組織・一般社団法人「日本船舶電装協会」に属している能登の事業者は5社。輪島には沖崎さんを含めて2社しかいない。輪島で漁を再開しようにも、下支えする人が乏しい状況だ。
ただ、沖崎さんは「焦っても仕方ない」と達観していた。「この2年間で生きているだけで、もうけ物だと思うようになりました。能登には『やわやわと』という言葉があります。無理せずゆっくり焦らずに、という意味です。焦って商売を建て直そうとしても難しい。なるようになる。もちろんくじけるわけにはいきません」。柔和な笑顔に強い芯が見えた。
撮影=葉上太郎
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