当日は一般の入場者はなく関係者のみだったが、オンラインで同時中継された。読み上げた時間は20分近くになり、ネット上には「なんだ、あの独演会は?」と批判的なニュアンスの意見が多く見られた。
「大崎が『なんて書いてある?』と聞いてきたので、『なげーよ』だってと教えてあげましたが、気にする様子はありませんでしたね。食事会のときに藤井八冠と写真を撮って嬉しそうにしていたのを覚えています」
大崎が病後に公の場に姿を見せたのは、これが最初で最後になった。「声なき祝辞」はその後にネットと新聞で公開され、大きな反響を呼んだ。「大崎の言葉は音声よりも文字の方が伝わる」と和は言う。死後に発売された最後の著書『リヴァプールのパレット』の中に、完全版が収められている。
森信雄七段との再会
2024年春、息子の唯が大学に進学し、京都で一人暮らしを始めることになる。家族で入学式に出席するために新幹線で京都へ向かった。
大崎が余命数ヶ月と宣告されたときから、2年が過ぎようとしていた。その間に再発と治療のために3度の入退院を繰り返し、体力の衰えは隠せなかった。
「家族3人での旅はこれで最後だと覚悟していました。御所の近くに泊まったのですが、朝、私が1人で散歩に行ったら後から大崎も来て2人で回ることに……。もう二度と一緒に見ることはないと分かって見上げた桜は、これまで以上に儚くて、涙を見せないように歩くのに必死でした」
このときに森信雄七段は大崎から連絡を受けて、宿泊先のホテルを訪れた。2人が再会したのは久しぶりのことだった。
「大崎さんから来ると聞いたときには、僕はどんな仕事の予定を変えてでも会おうと思った。病状はだいたいわかっていたので。当日はノートみたいなのを用意してパッと書いて、真っ先に『森さんと会うと1分で楽しくなる』と見せてくれた。それがすごく嬉しかった」
森と大崎の付き合いは長い。森が現役時代に対局で東京に行ったときは、大崎の家に泊まるのが常だった。逆に大崎が仕事で関西に出向けば、森の家で酒を飲みながら語り尽くす。
「大崎さんのバイタリティとか優しさとか総合的なところで、僕はすごく居心地が良かった。お互いに一番根幹のところがピンと来る感じだった。それに、僕の人生を変えてくれた人でもあった」
森が趣味で作っていた3手詰めや終盤の手筋を「面白い」と言って形にすることを勧めてくれたのが大崎だった。また撮り続けていた写真を最初に『将棋世界』誌に掲載してくれた。それらは森の新しい一面を引き出し、ライフワークとなっていく。
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