20代半ばで将棋連盟に就職し、33歳から10年間、『将棋世界』の編集長を務めた。まだ雑誌に勢いがある良き時代だった。組織に馴染むタイプではないが信頼され、斬新な企画を打ち出していく。大崎はその頃の自分を小説の主人公に投影しているが、その姿に自らレールを降りられないジレンマを感じなくもない。

 作家は大崎にとって辿り着いた理想郷だった。社会から縛られることもなく、気の赴くままに筆を走らせる。和は影響を与えることを一切しなかったというから、心は少年時代のように走り回れたことだろう。

周囲との軋轢

 大崎は注目作を発表し続け、『将棋の子』で講談社ノンフィクション賞、初の小説となる『パイロットフィッシュ』で吉川英治文学新人賞を受賞した。『アジアンタムブルー』は阿部寛主演で、『聖の青春』は松山ケンイチの主演で映画化もされている。

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 作家として順風満帆だったが、50代半ばを過ぎた頃から周囲と軋轢を生むことが多くなった。和は言う。

「友人に対して『いい? わかっている?』と言いたい放題で、それで自分の論が通らないと不機嫌になっていました。自身がヘビースモーカーだったにもかかわらず、禁煙してからは店で隣に座る客がタバコを吸うと平気で文句を言う。行きつけの飲み屋からも足が遠のき、一人自宅で飲むことが多くなりました。多分、何かやらかして出禁になったのだと思います」

 昔からの友人たちも少しずつ減っていった。編集者も必要以上に近づかなくなり、会うスパンが延びていく。

「端的に言えば、本人の驕りでしょうね。自分の意見はすべて正しいと勘違いしていた。ただ、大崎はどうしようもないところも多かったけど、とことん人に尽くす優しいところや、社会に対する信念のようなものがあった。私はそれを尊敬していたし、理解しているつもりでした」

 大崎は和のことを「人の本質を感じ取るような不思議な力がある」と書いている。和は4歳のときに交通事故に遭った。左足首を切断しかねない大怪我を負い、成長に伴って自身の体から皮膚や骨を移植する手術は15歳のときまで続いた。幼少時に人生を左右する大きな怪我を負ったこと、両親を悲しませないために明るく強くあろうとしたことは、少女の心の成長を早めた。

 女流棋士として迷いの中にあった和に、大崎は道を示してくれた。引退して将棋教室を開くときも、背中を押してくれた。その言葉は深い思いやりを感じるものだった。

 だが、結婚後10年が過ぎた頃、和の方から距離をとるようになった。癌がわかる前の数年間は、互いに必要以上のことを話さない冷戦状態にあった。

「大崎の友人や編集者に対する態度に辟易して、正直、気持ちが離れていた時期がありました。私に対しても、そんなことを言うならと思ったことが何度もありましたから」

 大崎も和の様子に何か感じるものがあったようだ。新刊を「読んでみて」と渡してきたことがあった。初めてのことで、何かメッセージが込められていたのだろうか。だが、和が本を開くことはなかった。