中国歴史小説の巨匠、宮城谷昌光さんの『三国志名臣列伝 蜀篇』の文庫版が刊行されました。
三国時代、最も小さな国・蜀。本書では、今も愛され続ける関羽、張飛、諸葛亮をはじめ、七人の名臣を丁寧に描くことにより、一見、非情にも見える劉備の不思議な魅力を炙り出しています。徹底的に史料にあたって書き上げた英雄たちへの挽歌は、読む者の胸を震わせます。
実は、宮城谷さんは、この列伝のなかに三人の名臣をいれられなかったのが悔やみとして残っているそうです。その三人とは、そして、書けなかった理由とは──。宮城谷さんがその真情を「文庫版あとがき」で明かします。
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魏にくらべて、蜀に属した臣下についての史料がすくない。
蜀を建国した劉備がなかなか定住しなかったため、記録もあやふやとなり、その部分が棄てられたと考えられる。また、劉備の子の劉禅が魏に降伏したあと、首都の成都で乱が生じ、図書や文書が焼失したり散佚したのではあるまいか。
とにかく劉備に従った人々の大半は、私欲がすくなく、それだけに魅力のある人が多いのに、伝を立てようとすると、史料的にむりが生じてしまった。
謎多き劉備の生涯
名臣伝なのに、劉備について書くのは、気がひけるが、かれの足跡をたどってゆくと、よくわからないところにぶつかる。
武装した劉備が、関羽、張飛などを従えて、幽州の涿県をでてから、最初に得た官職は、幽州の南隣の冀州にある中山国安喜県の尉である。尉は行政官でなく武事の官である。劉備がその県の尉になったというのは、どうやら本当らしい。
陳寿の『三国志』(正史)の「先主伝」では、劉備は黄巾の賊を討伐し、功を樹てたので、その官職をさずけられたとある。なるほど、と感心してもらってはこまる。中山国に縁もゆかりもない劉備が、安喜県に移されるには、かなり上位の大臣か官人のひきたてがなければならないのに、ひとりの氏名も浮上してこない。劉備が若かったころの学問の師は、盧植であったが、盧植は黄巾の首領を追いつめながら、宦官の讒言によって将軍の職からおろされてしまう。それゆえ劉備をひきたてるゆとりを、かれはもっていなかったであろう。
わからないことは、まだある。
『典略』という注では、劉備たちが戦った相手は、黄巾の賊ではない。黄巾の乱より三年ほどあとに、幽州において張純という者が叛乱を起こした。その叛乱を鎮めるために、東方の青州の従事が、兵を率いてすすんだ。劉備がその軍に加わるのは、なぜか青州内の平原県においてであり、賊との戦いで功を樹てるどころか、ぶざまに負けた。それでもあとで中山国安喜県の尉に任命されたとある。
劉備が安喜県の尉になったのは、黄巾の乱のあとか、それとも張純の乱のあとか。
外交の達人・孫乾
つい、ぐちに比いことを書いてしまったが、じつは、蜀の名臣のなかに、孫乾という外交の達人がいたのに、史料の欠如で、どうにもならなかった。
劉備の配下のなかで、外交の能力をもっていた者はすくない。そういう事情があっただけに、孫乾は魅力的であった。ところが正史のなかの「孫乾伝」を読めば、唖然とせざるをえない。冒頭の文は、こうである。
孫乾、字は公祐、北海の人なり。先主、徐州を領し、辟して従事と為す。
孫乾は青州北海国の人であった。先主すなわち劉備が徐州を治めるようになると、辟(召)して、従事に任命した。
これでわかったとする人はよほど頭がよい。私はわからなかった。まず、孫乾の父も出身県もわからない。
ただし、注がある。大学者である鄭玄が州に孫乾を推薦した。それを知った劉備がかれを招いた、とある。よくもこれほどわからないことがつづくものだとあきれる。かつて私は『三国志外伝』のなかで、鄭玄を書いたので、それを読んでくれたかたはわかっているであろうが、鄭玄は北海国高密県の人である。鄭玄は青州の府あるいは太守に孫乾を推めたのであり、徐州にいる劉備にむかってではない。それなのに、孫乾が劉備のもとにきたことはまちがいないので、そこに小説的合理を立てなければ、孫乾像を画けないが、たいそうなエネルギーをつかうことになるので、私は孫乾から手をひいてしまった。そのときから数年が経ったいま、劉備と北海国の関係を考えてみた。
