西方の梟雄(きようゆう)である董卓(とうたく)洛陽(らくよう)に乗り込んできたあと、董卓の批判者である孔融(こうゆう)が中央政府からだされて、北海国の(しよう)となった。ところがふたたび盛んになった黄巾に攻められ、窮地に立たされた。そこで救いを求めたさきが平原県で、その県は当時、国になっており、その国の相が劉備であった。劉備は義侠心を発揮して孔融を助けた。つまり北海国とのつながりは、そのときにできたのであり、鄭玄を尊敬していた孔融を介して、孫乾を得たか、その名を知った、となればいちおうすじが通る。

男だてのような格好のよさ

 劉備が平原国の相であったのは、徐州を領有するより三年まえであり、孫乾が劉備に仕えるようになったのは、正史に書かれている年より早かったかもしれない。

 孫乾が学問の道を歩き、鄭玄の弟子であったとすれば、知識の豊富さを外交に活かしたと推量できる。だが、徐州を支配したあと、おちぶれてゆく劉備を見限らなかったところに、孫乾には学問ひとすじではない侠気(きようき)があったとみたい。

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 あえていえば、劉備に()き従った人々は、大なり小なり、男だてのような格好(かつこう)のよさをもっていた。

 それはそれとして、劉備の外交面をととのえた孫乾は、劉備が(かん)王となってから、大いに礼遇された。だが、劉備が皇帝に即位するときまで生きていなかったのではないか。

 

ただ一人ユーモアをそなえていた簡雍

 ほかに列伝に加えたかった人物は、簡雍(かんよう)である。

 かれは劉備が涿県をでるときから随従したので、群臣のなかで、最古参にあたる。劉備を中心とする集団が武力を誇示するなかで、簡雍だけがユーモアをそなえ、奇人としての独特な発想をもっていた。その発想は人を害するものではない、ということははっきりとわかる。とにかくかれは劉備の従者というより、友人であったといったほうが正しいであろう。

 かれの話術には、相手を用心させない機知(きち)(あたた)かさがあり、それゆえ、余人(よじん)にはできない大功を樹てた。劉備軍に包囲された成都の城の(あるじ)劉悦(りゆうしよう)であり、かれは劉備のもとから使者としてやってきた簡雍を気に入った。開城するときも、簡雍を信じたがゆえに、かれを招いてともに城外にでたのである。そこでの流血が避けられたのは、簡雍の手柄(てがら)であったことは、いうまでもない。

 劉備が漢王になったあと、簡雍は昭徳(しようとく)将軍に任命されたが、たぶん兵を率いて戦場を踏んだことはない。歿年は不明である。が、孫乾よりすこし長く生きたように想われる。ただしそれは「簡雍伝」を読んだ私の感想にすぎない。