劉備が成都にはいってから、孫乾と簡雍以上に厚遇されたのは、麋竺(びじく)である。この人も列伝のなかにいれたかったが、ここで伝を立てるほどの詳細をもっていない。むろん正史には「麋竺伝」がある。その冒頭はつぎのようになっている。

「麋竺は(あざな)子仲(しちゆう)といい、東海(とうかい)郡(徐州)(きよう)県の人である。父祖は代々利殖(りしよく)につとめ、小作人は万人、資産は巨億(きよおく)であった。のちに徐州(ぼく)陶謙(とうけん)招聘(しようへい)して、かれを別駕従事(べつがじゆうじ)に任命した」

 陶謙については、あらためて解説するまでもあるまい。かれの配下が曹操(そうそう)の父と弟を殺したため、曹操に復讎(ふくしゆう)されて、困窮(こんきゆう)する。また、別駕とは、別の乗り物をいい、州牧の馬車とは別の馬車に乗る人のことで、副長官を指す。

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家も土地も棄てて劉備のあとを追った麋竺

 麋竺は陶謙を助けにきた劉備の義侠心に打たれ、陶謙が病歿したあと、徐州を治めてもらうにふさわしい人物は劉備しかいないと考えて、劉備を迎えに行った。そのあたりから劉備とのつきあいが濃厚になった。徐州が呂布(りよふ)詐謀(さぼう)によって奪われたあとも、豊かな財をつかって劉備を助けた。このあたり、麋竺は徐州のために劉備を助けたのか、劉備にいままでにない魅力を感じてそうしたのか、かれの心は揺れ動いていたであろう。曹操の力を借りて徐州をとりもどした劉備が、曹操にそむいたため、徐州から敗退したあと、麋竺が家も土地も棄てて劉備のあとを追った心情に、私は賛嘆せざるをえない。ところが、そのあたりの行動が正史には一行も記録されておらず、麋竺がいつ、どこで、劉備と再会したのかわからないとあっては、かれの苦悩と勇気を書きようがない。

読者におなじような失望をさせないために

 とにかく劉備が漢王、さらに皇帝となったあと、麋竺は安漢(あんかん)将軍に任ぜられ、その位は、諸葛亮(しよかつりよう)の上にあったと記されている。

 以上の三人を列伝のなかにいれられなかったのが悔やみとして残っているので、ここで私の真情を吐露させてもらった。

 小説は虚構(きよこう)であるから、(うそ)を書いてもかまわないとはいえ、歴史小説の場合はそうとばかりはいえない。私自身「三国志」の演義(えんぎ)(通俗小説)を好んで読んでいたのに、あるとき、あれも妄、これも妄か、と気づいて落胆し、すっかり()めたおぼえがあるので、読者におなじような失望をさせたくなかった、というのが私の本音(ほんね)である。

二〇二五年十月吉日

宮城谷昌光

 

宮城谷昌光さん 写真:文藝春秋

三国志名臣列伝 蜀篇 (文春文庫 み 19-51)

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文藝春秋

2026年1月5日 発売

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