秀吉の父・弥右衛門は秀吉の幼少時に死んでしまい、母のなかは竹阿弥という織田信秀(のぶひで)の茶同朋と再婚した。しかし秀吉が8歳になると、小僧として光明(こうみょう)寺(愛知県あま市)に入れられてしまう。じゃまな連れ子なので、家から追いはらわれてしまったのだ。

継父と折り合わず家出→数年間に38回も仕事を変える転落人生

 だが、寺でまじめに修行しなかったようで、3年後、秀吉は実家に戻って来る。けれども継父と折り合わず、家から出奔する。このとき母のなかは、亡夫の形見である永楽銭一貫文を秀吉に与え、出発を見送ったといわれる。

 先夫の子をかばって竹阿弥に見捨てられたら、なか母子は生きてゆけない。つまりなかは、息子より生活のほうを選んだことになる。少年秀吉はこのとき、必ずや将来出世してみせると天に誓った。

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 だが、運命は好転しない。針や草履の行商、鍛冶屋の弟子、富家の子守など、秀吉はたった数年間に38回も仕事を変えたと伝えられる。そして最後は「乞食」にまで転落してしまう。蜂須賀小六と(はちすかころく)の「矢作橋(やはぎばし)の出会い」は、ちょうどこの頃の話だと思われる。

豊臣秀吉の母「なか」を演じる坂井真紀さん ©文藝春秋

人生を変えた、蜂須賀小六との出会い

 蜂須賀小六(正勝(まさかつ))は野武士の親玉で、強盗を生業にしていた。あるとき、矢作川にかかる橋(愛知県岡崎市)の上で、偶然秀吉と出会うことになった。小六の部下が橋上で寝ていた少年の頭を蹴ったのである。それが、秀吉であった。

 頭を蹴られて飛び起きた秀吉は、ごつい野武士たちに対し「無礼者め! 小さいからとて同じ人間じゃ。あやまれ!」と頭領の小六をにらみつけた。

 ふつうなら、野武士の群れをみただけで縮み上がってしまうところだ。この堂々たる態度に小六は感服し、非礼をわびて秀吉を仲間に加えたと伝えられる。

 もちろん、史実ではない。そもそも矢作川に橋が架けられたのは、慶長6年(1601)のことだからだ。この逸話は『絵本太閤記』が初出だが、刊行されたのは秀吉死後200年経った寛政9年(1797)のことである。

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