彼にとって矢助は、自分を導いてくれる点で必要な人物なのだけれど、人生経験の豊富な矢助にとっては直四郎は必ずしもそうじゃない。でも、初めて出会ったタイプで、「次はどう出てくるんだ、この坊ちゃんは」みたいな、予想がつかない振る舞いにどんどん惹かれていくんでしょうね。私自身、それが面白くてたまらなかったです。

可愛い乙女と会うよりも……

ーー直四郎は役人でありながら江戸を窮屈な場所だと感じていて、自然を歩くことを好みます。それと同じくらい好きなのが、手控え帳を広げ、日記をつけることですよね。

あさの 最初はほんの思い付きで、冒頭に手控え帳に心のうちやその日のできごとを書きつけている場面を書きました。これが思いのほかしっくり来て。私自身そうなのですが、書くことではじめて自分の内面に気が付いたり、他人の何かを感じることができたりすることってありますよね。今まで何度も経験してきたので、きっとそこに彼の姿を重ね合わせたのだと思います。彼にとっては、可愛い乙女と会うよりもよほど書く時間が大切なんです。

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あさのあつこさん

ーーこの作品は、あさのさんにとっても新たな気づきのあった一作だそうですね。

あさの そうですね。人間は何十という層が重なってできていて、それを一枚一枚剥がして新しい一面を見せるのが小説の醍醐味だと思っていたんです。でも直四郎には裏も表もないから、そんなやり方が通用しない。本当に、感じたままを口に出すし、たとえば誰かを陰でくさすようなこともしないので、彼が口にしたことは本当に思っていること。

 かと言って、決して浅い人間というわけではないんです。例えるなら、汲んでも汲んでも水が尽きない豊かな水源を内に持っている人。そんな人物を自分の文章で書き表すことができたことは私にとって一大転換点ですし、三十何年の作家生活の中で初めてでした。

 直四郎がいよいよみなさんにお目見えするかと思うと、期待よりも不安が勝ってしまいます。我が子の初舞台を見守る母親の気持ちでしょうか。どうか楽しんでいただけますように。

八州の風手控え帳

あさの あつこ

文藝春秋

2026年1月21日 発売

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