最近の言葉でいうなら久米宏は視聴者に“寄り添って”いたのだろう。しかし久米宏にはそんなやさしい表現は似合わない。私を含む意地悪な視聴者(大衆)が何を求めているかという嗅覚を瞬時に働かせ、見事に意地悪を「提供」していた。久米宏は、サービス業としてのテレビを誰よりも自覚的に実践していた人だったのかもしれない。こういう言い方のほうが健全に思えてきた。
久米宏は自分では「司会者」と名乗り、記者ではないと…
さらに言えば、意地悪とは下世話さだけではない。ジャーナリズムとも相性が良さそうだ。
久米宏は自分では「司会者」と名乗り、現場を取材する記者やジャーナリストではないとよく言っていた。記者に対するリスペクトもあったのだろう。
しかしジャーナリズムって、現場を知っていればそれでよいのだろうか?
あえて言うならジャーナリズムには意地悪さも必須ではないか。だって、お上や権力者から言われたことにそのまま素直に従う人よりも、その都度「それは本当か?」と疑う心を持つ人のほうがジャーナリストに合うはずだ。少しぐらい疑り深い人のほうがこちらも安心できる。
映画『記者たち 衝撃と畏怖の真実』(ロブ・ライナー監督)には、新聞社支局長のこんなセリフがある。
「政府が何か言ったら、記者として必ずこう問え。『それは本当か』と」
それでいうと久米宏はジャーナリストではなかったが、疑り深いという意味ではその精神を持っていた。「ニュースステーション」での久米の番組ポリシーは「中学生でもわかるニュース」と言われたが、それはわかりやすさだけでなく、中学生でも疑問に思うことをちゃんと代弁できるのか、もあったのではないか。「知る」ことを提供できるのかという。
久米宏死す、を受けてメディアは過去記事を再掲している。興味深かったのがこちらの記事だ。
・〈追悼〉久米宏さん死去 「ニュースステーション」の光と影 筑紫哲也さんが語っていた「久米流」の巧みさ(東京新聞2026年1月13日)