『太閤素生記』がある程度信頼できる理由

 その一人は、知貞の父、土屋円都。土屋家はもともと甲斐武田家に仕えた一族(ちなみに円都の父昌遠は信玄に追放された武田信虎とともに甲斐(いまの山梨県)を離れ、京都まで行動をともにしています)でしたが、円都は幼少期に失明し、縁を頼って井伊谷の菅沼氏に身を寄せます。そして駿河(いまの静岡県中部)で、今川氏の人質となっていた少年家康の側に仕えたのです。

 その後も円都は検校として、今川氏真や北条氏政に近侍します。『寛政重修諸家譜』によると、氏政は円都に辞世の歌を託していますから、近しく仕えていたことがうかがえます。円都は記憶力が非常に良かったようです。

 秀吉による小田原攻めの際、家康は井伊直政に命じて、円都を救出します。幼少期の縁もあったのでしょうが、私はそれよりも家康の情報に対する鋭いセンスを感じます。つまり、家康にとっては、今川家、北条家の権力者のそば近くに仕えて、膨大な情報を耳にし、記憶してきた円都はまさに一級の生き証人でした。

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 この『太閤素生記』は説得力を持っています。なぜなら知貞の養母と祖母の二人がこれまた強力な証言者なのです。それもそのはず、彼の養母は、秀吉の出身地とされる尾張(いまの愛知県西部)の中中村の代官、稲熊助右衛門の娘でした。

 知貞によると、稲熊助右衛門は〈信長公の弓を預かる〉者であり、養母は〈秀吉前後の年〉、秀吉と同年代で、〈常に是を物語す〉と、秀吉たちの中村時代についていつも話していたそうです。

 さらに興味深いのが祖母キサで、彼女はなんと十六歳の秀吉に直接会っているのです。後に詳しく述べますが、秀吉が故郷の尾張を出て浜松にやってきた際の城主が、キサの父である飯尾豊前守でした。

秀吉の父親は…

 では、この『太閤素生記』は、肝心の秀吉、秀長の父親についてどのように記しているのでしょうか。冒頭の部分の現代語訳(磯田訳)を参照しながら紹介していきましょう。

〈尾州愛知郡の内に上中村中々村下中村と云在所あり 秀吉は中々村にて出生〉(*編集部註:かな、漢字などの表記は読みやすく改めました)

「尾張の愛知郡に、上中下の中村という地があり、秀吉は中中村に生まれた」

 ここで秀吉の出生地は尾張の中村だとされています。いまも名古屋市に中村区があり、名古屋駅もある中心地です。実は、この出生地をめぐっても議論があるのですが、それは後に述べるとしましょう。

 そして、父親です。