〈秀吉母公も同国ゴキソ村と云所に生れて木下弥右衛門所へ嫁し秀吉と瑞龍院とを持木下弥右衛門死去之のち後家と成て二人の子をはぐくみ中々村に居る〉

「秀吉の母も尾張の御器所村に生まれて、木下弥右衛門のところへ嫁ぎ、秀吉と姉を生んだが、弥右衛門の死後は後家となって中中村で二人を育てた」

 ところが、近年、戦国史研究者を中心に、天文十二年八月二日没の「妙雲院殿栄本」という法名の人物がいて、秀吉・秀長ともこの人物の子であるとする説をとる方も多いのです。

ADVERTISEMENT

『瑞龍寺差出』という史料がその根拠です。ただ、秀吉の母は、のちに秀吉の異父兄弟を産んだ産んでいないの隠し子騒動が記録されている人です。秀吉の父が長生きをしていたとしても、自動的に秀吉と秀長を同父兄弟とはいえない難しさがあります。

「二人目の父」の存在

『太閤素生記』では、ここで「二人目の父」が登場します。

〈信秀織田備後守家に竹阿弥と云同朋あり 中々村の生れの者なり 病気故中々村へ引込む所の者 是を幸に木下弥右衛門後家秀吉母の方へ入るる 其後男子一人女子一人秀吉と種替りの子を持つ 兄男子秀利(初名小竹、後羽柴美濃守、後大和大納言)〉

「信秀の家来に、竹阿弥という同朋衆がいた。中中村の生まれで、病気をして村に帰ったところ、秀吉の母と再婚し、男女二人の子をなした。その男子が羽柴秀利、幼名小竹、後の大和大納言である」

 というわけで、秀長は竹阿弥の子であり、秀吉の異父弟だと記されて通説とされてきたのです。

 

 しかし、異説もあるのですから、秀吉・秀長の父問題は簡単ではないとの理解でいて下さい。

次の記事に続く 「どうして指を切り落とさなかったのか」豊臣秀吉が抱えていた『豊臣兄弟』では描かれない「ハンデキャップ」の正体