日本共産党の委員長を務め、議員引退後も党の理論的支柱として影響力を持っていた不破哲三氏が、昨年12月30日に急性心不全のため亡くなった。95歳だった。

 不破氏が委員長として1期目の任に当たったのは、1982年から1987年にかけての約5年間。警察のSPすら寄せ付けない「鉄の組織」のトップを、当時の週刊誌カメラマンたちはどう写真に収めていたのか。報道カメラマンの宮嶋茂樹さんが、不破氏や宮本顕治氏との「攻防の日々」を振り返ります。

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 年明け早々、世の中は総選挙でアップアップである。ワシらフリーカメラマンもかつては総選挙のたびに、話題候補の選挙運動に密着していたものだが、昨今は首相ですら選挙応援スケジュールを公表しない。これも安倍晋三元首相暗殺事件の影響だろうが、この間はお茶を挽くことになりそうである。

 さて、カメラマン生活40年以上というキャリアだけが自慢の不肖・宮嶋だが、この業界に足を踏み入れて以来、つまり40年以上、国政政党で党名が変わってない党はもはや2つしか残っていない。

 ひとつはご存じ自由民主党、略して自民党。もうひとつが日本共産党である。共産党に至っては諸説あるが、1922年という戦前に非合法下であるものの創設宣言されており、4年前には結党100周年をたからかに祝っていた。

成田空港にて。離日するソ連のパブロフ大使(左)の見送りに仲よく並んで歩く不破哲三、宮本顕治両氏。その間に見えるのは当時の金子満広書記長。

 まあ、そんな日本共産党の戦前から1970年代までの歴史は、立花隆氏の『日本共産党の研究』に詳細かつ中立的に書かれているので、そちらを読んでもらえばいいとして……。ともかく、日本共産党はいまや我が国で最も歴史の長い政党になっている。

めったに姿を現わさなかった「みやけん」

 さて、ワシがこの業界に足を踏み入れたのは1980年代だが、その当時、政財官界で常に注目され、時に的にかけられてきた被写体がある。

 政界で言えば、与党自民党の「闇将軍」と言われた田中角栄元首相をはじめとした、最大派閥「田中派」の幹部連中。そして、当時も今も野党だった日本共産党の議長である宮本顕治氏(通称みやけん)に、その秘蔵っ子だった不破哲三、上田耕一郎兄弟。宗教界では創価学会の池田大作名誉会長、財界では当時飛ぶ鳥を落す勢いだった西武鉄道と西武流通グループを率いていた堤義明、清二兄弟などである。

病に倒れる前の田中角栄元首相。政治資金パーティーに主賓として呼ばれていた。我々は先輩方から「政治家のパーティーに出されるすしやてんぷらなどには絶対に口をつけるな」「ドリンクにも手を出すな」と厳しく教えられていた。
政治資金パーティーでの堤清二西武セゾングループ代表(左)と森喜朗衆議院議員(のち首相)。堤氏の父の康次郎氏は衆議院議長も務めた政治家であったが、清二氏は「みやけん」(宮本顕治氏)率いる共産党に入党し、辻井喬のペンネームで小説家としても活動していた。

 その中で、宮本顕治氏は国会内や党員の前以外の公の場にもめったに姿を現わさない人物であった。

 ちなみに当時、そんな「みやけん」率いる共産党と池田氏率いる創価学会は犬猿の仲。1970年に創価学会員が「みやけん」の自宅に盗聴器を仕掛けるという事件を起こすなど、相当な対立関係にあった。

 当時はワシも写真週刊誌のペーペーの新人カメラマン。めったに公の場に現れない二人をことあるごとに追いかけたが、当然迷惑がられていた。連中からしたらお邪魔虫でしかなかったのである。