20歳の時に作家と交際、俳優を辞める決意を固めたが…
高橋は20歳のとき、デビュー当時に雑誌で対談した作家と5年ぶりに再会したのをきっかけに交際を始める。15歳から大人のなかで仕事をしてきて、本当に心を開いて話せる相手のいなかった彼女には、真剣に話を聞いてくれる彼になら自分のすべてを預けてしまってもいいと思えたらしい。22歳になっていた1977年には俳優をやめる決意を固め、二人で飛騨の山中にある小さな村で生活を始める。
だが、彼女は心の底では仕事を続けたかったのだろう。あるとき、家で飼っていた猫がいなくなり近所を探していたところ、古い小屋を見つけ、そこで観客がいるつもりでちょっと演技をしてみたという。このときのことを彼女は後年、エッセイストの阿川佐和子との対談で次のように語っている。
《猫を探して歩きながら、空を見上げながら、ふと「私を見てほしい、私はここにいるのに」って思ったんです。十六軒しか家がないようなところにいても、私は自己顕示欲とか、自分をわかってほしいという思いが強いんだ、結局、私は女優をやりたいんだって、そのとき自覚しました》(阿川佐和子『阿川佐和子のこの人に会いたい9』電子書籍版、文藝春秋、2013年)
このころ、雑誌のモデルの仕事で上京した折、たまたま会った演出家の福田陽一郎から舞台出演の話を持ちかけられ、やってみることにする。それが1979年7月に東京・渋谷の西武劇場(現・PARCO劇場)で上演された『ドラキュラ』だった。それまでにも松田優作が仲間とやっていた劇団に誘われてノーギャラで舞台に出たことはあったものの、本格的な舞台公演はこれが初めてで、俳優としても2年ぶりの出演作となった。
"111日間失踪事件”の真相は…
ところが彼女は公演途中、突如として失踪してしまう。しばらくして例の彼と海外に渡ったと判明した。逃避行は111日間におよび、11月に二人そろって帰国、彼女はマスコミから集中砲火を浴びる。数日後に開いた会見では、逃避行の理由について訊かれても「私にとってはこうするしかなかった」と答えるばかりだった。
公演のほうは1日休演となったあと市毛良枝を代役に立てて続行され、何とか千秋楽を迎えていた。帰国後、演出の福田のもとを訪ねた高橋は、公演を無断で降りた理由を問われ、役作りのため染めた金髪のロングヘアを彼に切られてしまい、もうだめだと思った……と打ち明けたという。これに対し福田は、舞台に熱中する彼女に、彼が嫉妬から嫌がらせをしたのだと推察した(福田陽一郎『渥美清の肘付き――人生ほど素敵なショーはない』岩波書店、2008年)。
彼女はその後、きちんと謝罪し、舞台に穴を開けた損害賠償もできるかぎりのことをしたうえ、1年間謹慎する。彼とはけっきょく1981年に別れ、それを報告するため再び記者会見を開いている。プライベートなことにもかかわらずわざわざ会見で発表したのは、ちょうど映画『魔性の夏 四谷怪談より』の撮影に入る直前で、自分が黙っていれば撮影現場に報道陣が来てスタッフや共演者に迷惑をかけるとの彼女の配慮からだった。
「あれは恋愛ではなかったのかもしれません」
後年、彼女は元恋人との関係を顧みて《極端なことを言えば、あれは恋愛ではなかったのかもしれません。自分以外の誰もが敵にしか見えない中で、「この人なら自分をわかってくれるだろう。一緒にいることで自分探しができるかもしれない」と思えた、そんな師匠と弟子のような関係でしたから》と振り返っている(『婦人公論』2003年3月22日号)。(つづく)
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