きょう1月22日に71歳の誕生日を迎えた高橋惠子。「関根恵子」の名で15歳でデビューするとたちまちスター女優に。世間の話題をさらった“愛の逃避行”に至るまでの経緯について、#1で触れた。その後、破局や謹慎を経て活動を再開。映画監督との結婚、その半年後に芸名を変えた理由とは……。(全2回の2回目/はじめから読む

1979年、“逃亡”から帰国後の記者会見では、「私は女優失格です」と語った ©文藝春秋

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 高橋惠子(当時の芸名は関根恵子)は舞台に穴を開けたため1年間謹慎したあと、1981年には映画『魔性の夏 四谷怪談より』に続き、にっかつロマンポルノ10周年記念作品として製作された『ラブレター』で詩人・金子光晴の愛人役を演じた。同作の監督・東陽一との対談では《べつに結婚を否定しているつもりはないんですが、いまの段階としては、奥さんになるということに、まだ気持ちが向いてないんですね。結婚は、まだ無理でしょうね》と語っていた(『週刊平凡』1981年7月9日号)。

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若かりし頃の高橋惠子(当時は関根恵子) ©文藝春秋

映画監督と“運命の出会い”、公開と同時に挙式へ

 しかし、それからまもなくして運命の出会いがあった。のちに夫となる映画監督の高橋伴明から映画『TATTOO〈刺青〉あり』(1982年)への出演を依頼されたのだ。現実に起こった銀行人質事件をもとにした同作で彼女に用意されていたのは、事件を起こす男(宇崎竜童が演じる)の恋人役だった。

 渡された台本を読んで、この役は私以外の誰がやるのだと思い承諾すると、役作りについて話し合うため再び監督と会う。一緒に飲むうち、いつしかお互いの身の上話になっていた。その後も関西弁を習うことを口実に大阪のクラブへ二人で行くなど、公私入り混じった交際を続けるうち、自分を飾らずにありのままでいられるこの人となら、逆境に追い込まれたときもめげずにやっていけそうだと思い、結婚を決めたという。

映画『TATTOO〈刺青〉あり』(1982年)

 結婚式は映画が公開された1982年6月に挙げ、披露宴は内輪のものとマスコミ向けと2度行った。結婚して1週間ほどは、うれしさと、自分はもう一人じゃないんだという安心感から、毎日泣き続けていたという。

脱ぐことを拒否→事務所を解雇され…「女優としてちゃんと評価されたい」

 結婚直後には『火の蛾』という映画に出演する予定が、劇中で脱ぐことを求められて拒否したため、事務所に解雇されるという出来事もあった。彼女はデビューして以来、作品に出演するたび、ヌードやベッドシーンばかりが注目され、演技をきちんと見てもらえないことに不満を覚えていた。

 この頃のインタビューでも《最初の映画から脱いでたわけですからね、私の場合。いつも脱いでる脱いでないとかいう次元でとり上げられるばかりで……。やっぱり、女優としてちゃんと評価されたいわけです。役を演じるために脱いでるんだってみてくれないと、余りにさびしいんですよね。これからも10年、20年と女優をやってゆきたいと思ってるわけですから。裸だけで、いつまでも通用するものじゃないですしね》と語っている(『別冊シティロード』1983年10月31日号)。