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 こうして二度の発酵が終わると、平たく三~四センチ角に切り、良く晴れた日に三~四日、ムシロに並べて乾燥させる。この光景が碁盤に並べた碁石に似ていることから、碁石茶と呼ばれるようになった。

 独特のコクと乳酸菌由来の酸味があって、やみつきになる。

 中国雲南省の少数民族が作っている茶に似ており、ルーツは東南アジアの山間部とされている。

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山の斜面に張りついた水田と家々。長閑な風景が広がる

 大豊町に伝わったのは古い。「正式な史料としては認められていませんが、六百年ほど前に存在していたという庄屋の記録もあります」と大石雅夫・町教育次長は語る。町を貫流する吉野川流域が主産地だ。

 ただし地元では飲まれず、瀬戸内海の島々に運ばれた。島の井戸水は塩分が高くて飲みにくい。碁石茶は塩との相性が良く、「海水でいれても飲めるほどです」と大石次長は言う。茶粥などにも使われてきた。

 江戸時代には同町域を中心に約二千軒の農家が生産していたという。だが、明治政府は紅茶への転換を奨励した。さらに高度経済成長期後は大豊町も、瀬戸内の島々も、人口流出にさらされて生産量が激減した。八〇年代には最後の一軒になった。

 大石次長が碁石茶に関わるようになったのは、その頃だ。商工観光の担当者としてだった。

 消えてしまう前に製造工程を記録しようと、研究者が訪れるようになっていた。町も資料を集めて九一年度に博物館を造った。

 大石次長は危機感を持った。「産業として成り立たせなければ本当に消えてしまう」。そこで勉強会を作って生産者を増やそうと考えた。これに応じて一軒が生産を再開したが、計二軒になっただけだった。

 転機が訪れる。〇二年、テレビ番組で「最高級のプーアール茶に勝るとも劣らない茶がある」と全国放送された。役場などに注文が殺到し、三日間で在庫がなくなった。

 翌年、生産者は七軒に増えた。次の年はさらに二軒増えた。しかし、大石次長は心配だった。「品質は大丈夫なのか」。試しに品評会を行ってみると、惨憺たる結果だった。味も成分も碁石茶とは言えないようなものまであった。

 消費者の興味も、長くは続かなかった。