そして一揆勢との戦闘についても、「木下小一郎、浅井新八両人懸向はれ候。こだみ埼川口舟を引付け、一揆堤へ取上りかゝへ候。丹羽五郎左衛門懸向かひ追崩し、数多討捕り」と記されている。つまり、秀長と浅井新八の両名で一揆勢を堤に追い上げ、丹羽長秀が攻めて多数を討ち取った、とのこと。要は、信長の親衛隊というべき秀長と浅井、丹羽の3人の活躍によって、一揆の重要拠点が陥落したと評されているのである。
ちなみに、このとき秀吉は秀長とすっかり別の行動をとっている。しかも、『信長公記』に書かれている秀吉の行動は、一揆に参加した夫婦を捕えて処刑したというだけだ。長島一揆の攻略にかぎって見ると、信長は少なくともこのとき、秀吉よりも秀長のほうが役立つと評価していた、と考えるほかない。
秀吉の実績のウラにある弟の異能
天正5年(1577)に秀吉が播磨(兵庫県南西部)を攻めたときには、秀長は秀吉の戦闘に与力(軍事的な加勢役)として参加しており、これ以後の秀長は、秀吉と行動をともにしている。ただ、続いて但馬(兵庫県北部)に進出した際、秀吉は竹田城(朝来市)を攻め落とすと、修復することも含めて、秀長に竹田城を管轄させている。
秀長は築城にも長けている、と秀吉が評価していたということだろう。すると、従来、秀吉が行ったと考えられてきた築城や作戦に、秀長が大きく関わっていた可能性もありそうだ。
整理してみよう。秀長は兄の秀吉とは別に、あるいは兄以上に信長から評価され、むしろ兄よりも早く出世した可能性さえある。そして、信長はみずから率いる軍の先陣の、さらにその先頭に置くほど秀長を信頼し、戦闘能力も買っていた。秀吉の与力になってからも、城を築いたり作戦を練ったりするうえで秀長の力は欠かせず、秀吉の築城や作戦と思われているものも、じつは秀長が大きく関与している可能性がある――。
こうした諸々を考えると、桶狭間合戦が終わった時点で信長が秀長を評価する立場にいたなら、近習にしたいと考えるのは、とても自然なことに思えるのである。
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
