「豊臣兄弟!」では、小一郎は「兄とともに殿にお仕えしたい」といって、兄を立てるかたちで信長の命を固辞するようだが、この時点で信長が小一郎を近習に抜擢しようとした、という描写はなかなかおもしろい。

実際には、この時期に秀長がどこでどう過ごしていたか、わかっていることはほとんどない。だが、秀長という人物がのちにどう評価され、どのような活躍をしたか、ということを考えたとき、これは的を射た描き方だと思う。

桶狭間合戦に参戦していなかった可能性

桶狭間合戦に、秀吉と秀長の兄弟がどう関わったかを示す史料は残されていない。この時期の秀長のことを記した史料は皆無なので、まず秀吉について記しておきたい。

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小瀬甫庵の『太閤記』などによると、秀吉は各地で百姓家などに奉公したのち、永禄元年(1558)9月から清須の織田信長のもとに仕えたという。とはいえ、当初は士分としてではなく、主君の身の回りの世話などをする「小者」の立場にあったと考えられる。このために同時代の史料はもとより、のちに編纂された『太閤記』などにも、桶狭間合戦当時のことは書かれていない。

出世したのは、『明智軍記』によれば桶狭間合戦の翌年、永禄4年(1561)8月のことだったという。清須城の塀が崩れた際、秀吉はその修理を買って出て、見事に成し遂げたのが信長から評価され、足軽とはいえ士分に取り立てられたという。さらには出身地の名をとって「中村藤吉郎」と名乗るようになり、永禄5年(1562)には所領もあたえられ、寄親(家臣団内の擬制的な親子関係における親)の木下雅楽助から苗字をもらい、木下藤吉郎と名乗るようになった。

秀長については記録がないが、こうして兄が士分に取り立てられ、出世を重ねていく過程のどこかで、おそらく秀吉に誘われるかたちで信長の家臣になった、と考えられている。ただし、桶狭間合戦の時点では、まだ秀吉が士分ではなかったので、秀長はまだ清須におらず、合戦にも参加していないと考える研究者が多い。