その資金は、どこから調達するのか。ひとつは港のある商業都市を支配下に置くことです。信長が長篠の戦いでみせた鉄砲の大量使用は堺という大商工業地・国際交易港の鉄砲生産を押さえていたからこそ可能になりました。
そして、もうひとつが鉱山でした。たとえば毛利家の強さを支えていたのは、尼子氏との戦いに勝利して、永禄五(一五六二)年に手中に収めた石見銀山の銀にほかなりません。毛利元就はわざわざ遺言にも、石見銀山を死守し、軍資金とせよと書き残しています。
当時、生野銀山は石見と並ぶ、日本有数の銀山でした。秀吉・秀長が竹田城を落とし、生野銀山を押さえると、信長はこれを自分の直轄地にします。この時期、生野銀山関連の文書を見ると、秀吉は自ら信長への銀の上納を担当し、秀長は竹田城城代として、生野銀山に接近する敵を打ち払うガードマンの役割を担っていました。
三木城を落とした秀吉に、信長は二つのプレゼントを与えます。
ひとつは、茶会を開く権利でした。たかがお茶というなかれ、これは信長の「御茶湯御政道」と呼ばれる家臣統制政策でした。信長は功績をあげた家臣に茶道具を与え、さらに貢献を認めた者にだけ「御茶之湯」、すなわち茶会開催を許しました。
お茶は信長の信頼の証であり、家臣団のランキングを明示するものだったのです。事実、秀吉より先に茶会を許されたのは、嫡男である織田信忠、明智光秀などごく少数でした。
しかし、秀吉にとって茶より嬉しかったと思われるプレゼントが生野銀山です。信長は秀吉に生野銀山の上りを与えたようで、秀吉は莫大な独自財源を手にしたのです。
「二十カ月かかった三木城攻め」と「一カ月余りで終わった高松城攻め」の違い
生野銀山を手にしたのち、天正十年四月には、秀吉は難攻不落とされていた備中高松城を包囲し、有名な水攻めを行います。五月のはじめから堤防工事を行い、わずか二週間足らずのうちに完成させると、城内まで浸水した高松城は兵糧を絶たれ、六月四日に落城しました。このとき、秀吉は土嚢一俵に付き銭百文、米一升という超高額報酬で、人を集めたという言い伝えが後世にあるほどです。
二十カ月かかった三木城攻めと、一カ月余りで終わった高松城攻めで、何が違ったのか。その答えのひとつは、生野銀山です。
高松城の水攻めに要した膨大な戦費は、生野銀山からの収入によるものが大きかったに違いありません。お金がなくては天下は獲れません。秀吉が天下を獲れたのは、この生野銀山をおさえていたのも一因でしょう。
