戦後73年。戦争体験者から“あの時代”を表現する新世代まで、それぞれの「歴史との向き合い方」とはどんなものでしょうか。異例の抜擢で主演を務めた名作ドラマの秘話とともに語られる「寺内貫太郎」と「小林亜星」、それぞれの戦後をお伺いしました。(全2回の2回目/#1より続く)

小林亜星さん

貫太郎は戦争のことをあんまり語らないんですよね

――『寺内貫太郎一家』で主演を務められた時、小林さんは41歳だったんですね。

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小林 41歳で51歳の貫太郎を演じたんです。妻役の加藤治子さんは僕の10歳上だったんですよ。加藤さんお若いから、僕と並んでもそうは見えなかったと思うけど。息子役の西城秀樹さんが18歳で、お手伝いさん役の浅田美代子さんが17歳。お婆さん役の樹木希林さんが30歳くらい。もう44年も前の話になっちゃうのか(笑)。

ドラマシリーズ終了後の特番で

――向田邦子脚本の不朽の名作です。それで、このドラマの第18回なんですが、珍しく貫太郎が戦争体験を話すシーンのある回なんです。

小林 確かに、貫太郎は戦争のことをあんまり語らないんですよね。単純に計算すれば放送されたのが1974年ですか。それで、貫太郎が51歳なんだから、21か22そこらで終戦を迎えていることになる。何してたんだろうね。僕、セリフでなんか言ってるの? 忘れちゃったよ(笑)。

――「五島列島の福江というところにいた。それでタコツボ掘ってて、沖縄の次は五島列島だってんで玉砕の覚悟をしてた」っていうセリフがありまして。タコツボっていうのは砲撃から身を守る穴のことでしょうけど。

小林 ああそう。そんなこと言ってるの。珍しい回ですね。

「寺内貫太郎一家」は、東京・谷中の石材店が舞台だった

「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」

――この回、実は『文藝春秋』の記事が登場するんです。1974年5月号なんですが、鈴木明による「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」。

小林 ああ、これ覚えてますね。ありましたね、こういう回。たしか久世(光彦・演出家)さんもこの記事をえらい気に入って、向田さんに書いてもらうように言ってたんじゃなかったっけな。この歌、『リリー・マルレーン』は第2次大戦中のドイツの歌で、ラジオで流していたんだけど敵味方関係なく聴かれて、アメリカ兵やイギリス兵の間でも愛されたっていう曲ですよね。メロディーもすぐ出てきますよ。タ〜ンタタタ〜ンタン……。

 

――この回は戦時中のラジオ番組『前線へ送る夕』のことも朝ごはんのシーンで話題になってました。

小林 懐かしいですねえ。オープニング曲は『ハイケンスのセレナーデ』。世界的マリンバ奏者の平岡養一さんの甥で、僕と同じ当時小学6年生だった平岡精二さんの演奏でね。僕はこれを聴いてて、鍵盤楽器かっこいいなってビブラフォンを始めるんです。

――ビブラフォンを演奏してたのは、いつ頃のことなんですか?

小林 大学ですね。朝鮮戦争が始まって、横浜に進駐軍のクラブがたくさんできてね。バンドが足りないから、僕らみたいな下手くそな学生バンドにも声がかかるようになったんです。そこでビブラフォンやってました。当時「センイチ」っていうジャズのスタンダードナンバーが1001曲書かれている海賊版みたいな本が出回っていて、それを覚えながらやってましたよ。