かつての米長先生は憧れでした。私は先生が名人を獲る前の45~50歳までを目の当たりにさせてもらいましたから。あの5年間というのはすごい時間でした。先生が45歳のときに私は22歳で、自分でも一番激しい感情で将棋に打ち込んだ時期でした。

師匠の後援会

 私が18歳のときに師匠の花村先生(元司九段)が亡くなりました。後援会の方々がたくさんいらっしゃったんです。師匠が活躍された頃はまだ対局料も賞金も安くて、将棋一本に打ち込んでも、それだけでは生活できなかった時代でした。だからタニマチの存在が必要だったんですね。そうした方々の支えがあって将棋界は成り立つことができたのです。花村先生は私が奨励会の頃から後援者に紹介してくださいました。指導対局を勤めさせていただき、ご年配の方々からいろんなことを教わりました。

 師匠が亡くなってからは、そのお付き合いの縁は私に受け継がれました。色々な方からお声がかかり、酒席に招かれるんです。ときには「今から来られないか?」ということもありました。

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 ただ、私が棋士になった頃には対局一本に打ち込むのが一番望ましい時代になっていたんです。20代で最も将棋に集中していた時期でした。対局も多く、少しでも勉強したいし、身体を休めたい。それでも私には、お誘いを断ることはできませんでした。師匠の代からお世話になってきましたし、ご好意で言ってくださることでしたから。支えてくださった方々に、このような言い方をするのは大変申し訳ないのですが、対局との両立で一番悩んだことでありました。私からは変えられないことだったのです。それは40代後半頃までずっとありました。

 実は増田を会に連れて来いと言われたことが幾度となくあったんです。私は「増田はまだ修行中の身ですから」と、ずっとかわしてきました。ちょっと飯でも行こうじゃないかという誘いも全部断ってきました。増田に自分の人間関係を背負わせることは、決してしてはいけないと思っていましたので。とにかく将棋一本に打ち込ませてあげたかった。花村先生時代からのご縁は、古き良き将棋界の慣習でありましたけれども、私の代で終わりにするつもりです。