「粋な街でしたね。いい街でしたよ」

 当時の街の様子を聞くと、守谷さんは「粋な街でしたね。いい街でしたよ」と振り返る。72歳のオーナーが4、5歳の頃までは、水野町でも花魁道中(注:花魁が馴染みの客を迎えに、または馴染みの客の元へ向かう際、格式を示すために行われた儀式的な行列。特殊な歩き方、ゆっくりと練り歩く姿は、花魁の格式や美しさを誇示する江戸文化の象徴的なイベントと言われることも)があったといいうから驚きだ。

岐阜金津 花魁道中の情景/岐阜市歴史博物館所蔵

 なお、当時の金津では、商売で成功を収めた者がセカンドビジネスとして遊郭を営むことが多かったという。一方、着物のお針子さんがお金を貯めて始めるケースもあったそう。繊維産業で栄えた岐阜らしいエピソードだ。

 近隣の地域から、金津は比較的裕福な地域と認識され、現在のように性産業の町だと色眼鏡で見られることもなかった。学業熱心な家庭も多く、守谷さんも慶応義塾大学卒業後、ミラノに国費留学している俊英だ。

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金津園の電柱には24時間受け入れの保育所の広告が

 戦後、GHQにより公娼制度が廃止されたが、抜け道を使って、町の商売は何とか継続できていた。しかし、昭和33年に売春防止法が施行されると、金津園のみならず全国の遊郭は全て廃業することになり、そのタイミングで十四楼も“遊郭”としては廃業。“旅館業”へと転業した。

かつては一車線の細い道に沿って多くのソープランドが建ち並んでいた

 しかし、いくら時代が変わっても、人間に本能がある限り、性産業は絶対に無くならない。

 守谷さんが高校二年生の頃、性風俗特殊営業の届け出と公衆浴場としての許可を得て、ソープランドへと転業した。当時は“トルコ風呂”と称されていたが、当時ジャーナリストだった小池百合子氏の活動やトルコ共和国からの抗議があり、公募によって“ソープランド”に改称された。

 家業が旅館業からソープランドへと移り変わる頃、守谷さんの母親が実質的に祖父の後を継いで店を切り盛りしていた。当時、経営者としても女性が多く活躍していたそうで、旦那はお手伝い程度のことが多かったようだ。

解体され更地となった場所も目立つ金津園

 守谷さんは大学を卒業したのち会社に勤め、結婚もしていた。

 しかし、昭和56年に家族から呼び戻され、サラリーマンを辞めて家業であるソープランドを継ぐことになった。最初は抵抗もあったが、「長男だから仕方がない」と諦めた。とはいえ、守谷さんの奥様は最後まで強く抵抗した。

「サラリーマンのままだと思っていたのに、裏切られた」

 禍根は今も残っているという。

 オーナーが家業を継ぐにあたり、店を鉄筋のビルに建て替えた。また、同時に店名を“十四楼”から“シルクロード”に改めた。

現在のシルクロード

 お店は盛況で、金津園には連日多くの人が押し寄せた。旅行会社のパックツアーにも金津園が組み込まれ、旅行会社の名前をモジって“やるパック”と揶揄されていた。

 冒頭でも触れたように、岐阜市の観光といえば長良川の鵜飼いが真っ先に挙げられるが、「鵜飼いよりも金津に来る人のほうが多かった」と当時を振り返る。