幽閉された最高指導者の実弟
そして、不幸な使われ方をしてきた特閣もある。北朝鮮北部にある慈江道江界の特閣。広さは86ヘクタール。北辺の山間部にあり、冬場は非常に寒く、周囲との交通の便が悪い。ここには長く、金日成の実弟、金英柱が幽閉されていたとされる。
21年12月15日、朝鮮中央通信は、金英柱が死去し、正恩が14日に弔花を贈ったと伝えた。同通信は、金英柱について「党と国家の要職で長い間活動し、党の路線と方針を貫徹するために献身的に闘い、社会主義建設を力強く推し進めて朝鮮式の国家社会制度を強固にし、発展させるのに貢献した」と報じた。だが、日成の血族である「白頭山血統」の1人でありながら、金英柱の人生には謎が多い。
韓国統一部の「北韓主要人物情報」によれば、金英柱は1960年に党の最重要部署である党組織指導部長に就任し、名実ともに北朝鮮のナンバー2になった。康仁徳によれば、金英柱は72年5月、極秘に訪朝したKCIAの鄭洪鎮心理戦副局長と面会した。人柄の良い印象だったが、同年7月、南北共同声明に署名するために訪朝した李厚洛KCIA部長らは金英柱に面会できなかった。声明は、李と金英柱の名前で署名したが、日成は「金英柱は病気で会えない」とだけ説明した。
KCIAは74年7月ごろ、金正日が後継者だと判断した。75年になり、脱北者の情報から金英柱が地方に追放されたと知った康は「まさか粛清されるとは」と驚いた。当時、権力闘争が起きていたことすら知らなかったという。
兄弟のどちらを後継者にするか悩んだ金日成
50年まで平壌で暮らしていた康は、45年に兄から聞いた話を思い出した。兄は、金英柱の友人から聞いた話として「金英柱は戦時中、日本軍の要請を受けて抗日パルチザン活動をしていた金日成に帰順を勧めたことがあるそうだ」と教えてくれた。日本軍は当時、金日成が率いる抗日パルチザンの活動に手を焼いていた。朝鮮総督府には、金日成の詳細な資料もそろっていたという。
金英柱は終戦時、中国・上海にいた。日本軍と関係があったため、ソ連が進駐する平壌に戻るのは危険だと判断し、ソウルに移った。その後、平壌に入った金日成から連絡を受けたため、平壌に戻ったという。
金英柱は兄の側近として、独裁政治の基礎を作った。北朝鮮の悪名高い「出身成分制度」作りも主導した。同制度は市民を、抗日パルチザン関係者らの家系にあたる「核心階層」(約10%)、一般市民らの「動揺階層」(約60~70%)、朝鮮戦争(1950~53年)で捕虜になった人々などの「敵対階層」(約20~30%)の3つに分け、さらに51の詳細な身分に分けて区別した。
金英柱は協同農場の組織づくりや、ソ連派、延安派(親中国)らの粛清でも先頭に立った。康は「金英柱は組織指導部を握っていたし、子分たちも大勢いた。金日成も、金正日と金英柱のどちらを後継者にするかで悩んだと思う」と語る。
抗日パルチザン活動をともに戦い、金日成の側近だった崔賢や呉振宇らは金正日を推した。金日成は71年の時点では、金正日を後継者とすることを拒んだが、72年に受け入れた。
