ドラマや映画に登場する悪人は、誰がどう見てもわかりやすい「悪人」の形をしている。しかし、私たち自身がそんな「悪」とは無縁であると、果たして言い切れるだろうか。
瀬木比呂志氏は33年間務めた裁判官という仕事を通して、「悪」を含め、人間のさまざまな側面を客観的、中立的な立場から吟味、探究する必要性に駆られてきた。
ここでは、瀬木氏が経験をもとに人間の本性について綴った『裁判官が見た人間の本性』(ちくま新書)より一部を抜粋して紹介する。瀬木氏が目撃した人間の内なる「悪」とは……。(全3回の3回目/最初から読む)
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法廷における「悪」
「悪」とかっこでくくるといかにも特殊、異常なもののように感じられるが、実際には、悪は、ありふれたものである。ただ、私たちが、普通は、それをなるべく「みないようにしている」というだけのことだ。
広い意味でいうなら、訴訟、法的紛争には、しばしば、エゴとエゴの激しいぶつかり合いがあり、それが「悪」の契機を含むことも多い。
たとえば、私は、保険会社に対する生命保険金請求事件で、原告である女性(保険契約者)が保険の対象者である交際相手の男性を殺したのではないかとの疑いのある事件を担当したことがある。その男性は、夜間に大型客船から突然に失踪しているのだが、失踪直前の日記に、「もしかしたら自分は殺されるかもしれない」との疑念を記していた。そう考えながらも、相手の女性には惹き付けられ、執着を断つことができないまま、誘われて船の旅に出ているのである。殺人の確かな証拠はない(もしもあれば刑事事件になっている)ものの、原告の主張する「不慮の事故による溺死」を疑うだけの反証はあるとみて、請求は棄却した。
あるいは殺人者であるかもしれない人物、その疑いが一定程度ある人物が、法廷という公共の空間で原告としてみずからの権利を主張する事件の審理は、考えようによっては不気味なものであり、裁判という仕事の不思議さを思わざるをえなかった。裁判官の仕事にはいくつも特殊な側面があるが、その一つは、日常的に悪と向き合い、それを吟味しなければならないことだ。弁護士の場合には、「自分の依頼者は正しい」という前提に立つので、この点はやや異なってくる。
知性、感受性が相当程度に、そして同程度に高い人間が裁判官になるか弁護士になるかによって、10年、20年経つと、その人間としての構えや認識にかなりの差が出てくる。そして、日本ではことのほか強い官僚的体質、また権威志向や事大主義にそこなわれていなければ、裁判官になった人のほうが、ものの見方や考え方、感じ方に関する限り、より深いものとなりやすいのは事実だ。これには、裁判官が、裁判を行うにあたり、「悪」を含め、人間のさまざまな側面を客観的、中立的な立場から吟味、探究しなければならないことが関係しているのではないかと思う。
