なぜ将来を約束された天才ピアニストは、エンジン工場で12時間の肉体労働に身を投じたのか。鉄の破片が刺さり、手に火傷しながら働いた日々の先にあった、“一度ピアノを手放した”理由とは――。
4歳でピアノを始め、18歳で世界最高峰の音楽大学に合格。将来を約束されたはずの天才ピアニスト・三浦謙司のインタビューをお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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5歳でピアニストを夢見た少年が、ドバイで喧嘩の日々へ
――ピアノとの一番古い記憶はいつですか?
三浦謙司(以下、三浦) 覚えてはいないんですけど、0歳の頃から自宅にあった、誰も弾かなくなった母のアップライトピアノの椅子の下にいるのが好きだったみたいです。オムツ姿の写真が残っています。それからだんだん手が届くようになって、ピアノを弾いてみたいと思ったのかもしれません。
4歳のときに習い始めて、5歳のときは「ピアニストになるんだ」と思っていました。母親から「ピアニストになりたいの?」と聞かれて、「なりたいじゃなくて、“なる”んだよ」と、答えていたみたいです。
――小学4年生まで神戸で過ごされて、その後はご家族の転勤でドバイに引っ越されました。
三浦 ドバイってすごくリッチで、建物もきれいで、観光客がたくさんいて派手なイメージがあると思うんですけど、ほんの数十年前は砂漠しかなかったんですよね。そこから急成長したということは、貧富の差も大きくて、移民の子どもたちもたくさんいました。
当時、ドバイに住んでいた人の2割がアラブ人。普段の会話も、学校の授業もすべて英語でした。
――ドバイでピアノは続けられましたか?
三浦 先生を探したんですけど、僕が弾いてみせると「難しい曲だから教えられない」と言われてしまって、教えてくれる人がいませんでした。ピアノを弾くどころかガラの悪い学校だったので、ずっと喧嘩ばかりしていて、何度も怪我をしました。
3年間通って、眼鏡が何個壊れたかな? 転校して1週間ぐらい経ったときに突然殴られて、英語もまだわからなかったから、今でもどうして殴られたのかわかりません(笑)。
みんな過酷な状況の中で暮らしているから、常に空気がピリついていて喧嘩っ早かったんですよね。そんな中で、自分の親は駐在で来ているから、クラスメイトよりもいい家に住んでいたわけで、どんな家に住んでるかとか、ましてや僕がピアノを弾くなんてことは、絶対に知られたらいけないと察して、隠していました。
