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これまでの女子フィギュアには“陰”があった
トンプソン記者は、リウの金色の衣装を「成功の予告としてではなく、内面に宿る輝きを示すため」と分析した。
そして試合後、リウは金メダルを手に取りながら、「これは必要ないの」と話したという。
「私に必要だったのは舞台だけ。それを手に入れた。だから結果がどうであれ、私は大丈夫。もしすべてのジャンプで転んでいたとしても、このドレスを着られた。それだけで十分だった」
金メダルという単語を封じられたディグリエルモ・コーチは、こう話す。
「喜びこそが彼女のブランドなんだ。彼女は観客を氷の上に連れ出し、彼女とともに喜びを感じさせる」
オリンピックでの女子フィギュアスケートは、表彰台の真ん中の選手のキャラクターによって、その大会のイメージが左右される。
荒川静香の美しきイナバウアー、キム・ヨナと浅田真央のデュエル、そして直近の3大会はソトニコワ、ザギトワ、シェルバコワとロシア勢の戴冠が続いた。
私はロシアで育ったスケーターたちの演技を見るのが好きだが、陰があることを否定できない。ありとあらゆる喜びを犠牲にして、この舞台に立っているのではないか、と。
その陰は、時に芸術性へと昇華することがあるのだが(平昌大会銀メダリスト、メドベージェワの文学的な美しさ)、どこかに悲哀が感じられた。



