従業員は近所の“おばちゃん”4人

 敗戦後の1946年、2代目の龍太郎が能村テント商会を能村縫工所として復活させる。借家の5坪半の一室と裏庭が事務所兼工場となり、装備は足踏みミシン1台とハサミ1丁しかなかった。従業員は近所の“おばちゃん”4人。龍太郎が従業員にハサミの持ち方を一から教えたという。

写真はイメージ ©mapo/イメージマート

 最初に主に製造したのはバックパック。ヤミ物資を運ぶために重宝されて、つくればつくるだけ売れた。

 そして、創業期の経営基盤を固めるのに貢献したのが、船舶のハッチカバーだった。ハッチカバーとは船の荷物を積む部分のフタのこと。当時は米不足だったので、ベトナムやタイから米を輸入していた。大阪港に入る大型貨物船から米を小型船に積み替えて陸揚げしていたのだが、龍太郎はその小型船のハッチカバーに着目したのだ。

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ヤミ市場から高額な布を仕入れて

 ハッチカバーの需要は急増していたが、問題は布の手当てだった。布は政府から配給されたが、十分な量が集まらない上に品質が悪い。そこで、龍太郎はヤミ市場から公定価格の20~50倍の価格で布を仕入れてハッチカバーを製造した。大変リスキーではあったが、スピードを重視した決断が奏効して業績を伸ばすことができた。

 1947年には株式会社に組織を変更、社名を現在の「太陽工業」とした。社名に「能村」と入れなかったのは、龍太郎の「太陽こそ、万物すべての、エネルギーの源泉である」との考えからだそうだ。

 その後は、ダイハツ工業の軽自動車「ミゼット」の幌、コンテナバッグ、オイルフェンスなどを開発し、事業規模を拡大していった。