売春島の名を広めた「4人の女性」
「その4人が島に来たのはいつごろか覚えていますか」
「僕は島で生まれ島で育ち16歳、1965年に島外に勤めに行きました。以降は夏休みと冬休みに帰郷する程度でしたが、毎年、帰るたびに『島が賑やかになった』という実感がありました。だから1965年だろうね。でもね、この島は昔から『風待ち港』という俗称で、江戸時代から江戸と大坂を結ぶ航路上の港街だった。だからね、よく天候が悪くなると風よけのため帆船が停泊するのよ。そこからはじまってね、よく帆船の乗組員たちがね、渡鹿野に停泊すれば当然、船に乗せる薪や水が必要だったんだよね。
この島のお寺の井戸からはまったく塩気のないおいしい水が出るんですよ。だからその水を汲んだり、また船乗りたちがその井戸の立ち上げ時にお金を寄付したりとね。井戸には寄進者として船の名前が書いてあったりするからさぁ。
また島の裏側には的矢(志摩市磯部町的矢)という地区があって、的矢には渡鹿野より多くの船が停泊した記録が残っていて。壺井栄の祖父にあたる人物が的矢に住まれていたという歴史があって、自分のルーツを探しに的矢に来たことがあるという。
的矢地区には九州、四国、大阪の船乗りたちの亡くなった方々の、多くの墓標がある。だから歴史を振り返れば、そうした関係から四国や九州の方々が的矢に定着した記録がある。
貧しい島の人たちは、その船乗りたちの相手をすることでお金を得る。渡鹿野の人たちは半農半漁の生活をしていたなかで、そうしたうまみが江戸時代に構築されたわけだよね。だから歴史のなかで住民票を調べれば、当時の人口比率は圧倒的に女性が多いわけ。
というのも、女性たちが島で船乗り相手に夜伽などをしていた。その夜伽を鳥羽あたりでは把針金という。渡鹿野あたりでは『菜売り』というんです。
菜売りはね、小さな天馬船に乗って、畑で取れた菜っ葉や大根などの野菜を船に売りに行くんだよ。『菜いらんの?』『菜いらんかな?』そう声をかけながら船に近づいて売ったんだよ。文献によれば、四国の豊島にも菜売りの文化があるそうなんだ」
豊島は、瀬戸内海に浮かぶ、岡山県と香川県の中間に位置する小さな有人離島だ。四国に風待ち港があったのは間違いない。しかも、渡鹿野島と同様に把針金の文化があり、それぞれ菜売りと呼ばれていたのだ。四国出身の4人に加え、これも新たな発見である。続く証言に、さらに私は引き込まれた。
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