初めての単独猟では、偶然鉢合わせたクマを仕留めた。だが、そのクマが痩せていたことにショックを受けたマチは、「なんで撃たれちゃったの、お前」とクマの亡骸に呼びかける。そのクマの肉を持ち帰って口にしたときの場面はさらに印象的だ。
〈口の中に入れると、途端に強い獣臭が鼻にぬける。そして、噛むたびにその臭いは強くなっていく。(中略)これは、撃たれるべきではなかったけれど、私が撃ってしまったクマの味だ。この不味さを、私はちゃんと覚えておくんだ〉
吉村昭の『羆嵐(くまあらし)』をはじめ、羆撃ちを扱った小説はいくつかあるが、本作がそれらと決定的に異なるのが、ここだ。『羆嵐』の銀四郎や『ともぐい』の熊爪であれば、クマを撃った後でこういう反応にはなるまい。彼らは小説の初めから“羆撃ち”として完成しているからだ。だが本作は、狩猟のことなど何も知らなかった人間が“羆撃ち”になっていく過程を丹念に描いていく。
過去の羆撃ち小説と異なる点がもうひとつ。本作で描かれるクマはどこにでもいる普通のクマだ。『羆嵐』や『ともぐい』におけるクマのように、特別大きいわけでも凶暴なわけでもない。そこに物語としての誇張は一切なく、その行動は野生動物としての合理性に貫かれている。怒りや恐怖という人間の感情でクマの行動を“翻訳”することはしない。例えば、ある場面でのクマの描写はこんな具合だ。
〈クマは一度上体を元に戻すと、体を反転させた。のし、のし、というゆっくりした動きが重量を感じさせる。痛みを忘れて怒り狂っているという雰囲気ではないことが、却って恐ろしい〉
そうなのだ。野生動物は人間とは全く異なる原理で動くからこそ怖いのだ。
クライマックスでマチは人を襲ったクマを追いかけることになる。そのクマが人を襲う原因を作ったのは「ゆるハンター」を名乗る動画配信者だ。彼らに対するマチの態度を、先輩ハンターである「勇吾」はこう評する。
「こいつには存在する価値がないって、『決めていた』。正直、傍で見ててぞっとした」
ここで読者は“親ガチャSSRの女子大生ハントレス”が、何か異形のものに変貌しつつあることを、ようやく察するのである。
物語のクライマックスにおけるマチの行動には、正直言うと最初は“ドン引き”した。Sさんではないが、「なして?」と言いたくなる瞬間もあった。手負いのクマの危険性は、取材で何度となく聞いていたからだ。マチ自身も〈かつての自分からは考えられないほど、無謀で野蛮なことをしている〉と自覚している。
だが同時にこうも思うのだ。
〈そう、自分は野蛮になった。野蛮さを得たのだ〉
そして野蛮になるほどに、彼女の視野は今、そこで見るべきものを拾っていく。派手に草が倒れている、シカが作った獣道。円形に踏みつけられたのはシカが寝床を作った“休息地”。そこには、無数のシカの糞――。
〈マチはその小さな休息地にしゃがみこんだ。雨で濡れているので分かり辛いが、鹿の糞の一部が踏み潰されたようにひしゃげている〉
クマの足跡はない。だが自分以外の人間がいないはずの場所で、それほど時間の経っていないシカの糞を踏みつぶしたものがいるとしたら――マチは決断する。
物語を読み終えた後も、マチの決断をどう受け止めるべきか、私にはわからない。わかっていることは、彼女はこれからも「なして?」を踏み越えていくだろうということだ。
私は、単独猟で120頭以上のヒグマを仕留めた“史上最強の羆撃ち”赤石正男のことを思い出した。以前、彼に「赤石さんにとって羆を撃つことにどういう意味があるんですか」と聞いたことがある。彼はちょっと困った顔をしてからこう言った。
「いやぁ、『(クマが)いるから撃つ』だなぁ」
この言葉を聞いた当時は、ちょっと物足りなさを覚えた。だが今なら、少しわかる気がする。“野蛮さ”とは、山の中でクマと向き合う資格のことだ。同じ獣として。
赤石が120頭のクマを獲れた理由と、マチの前にクマが引き寄せられるように現れる理由はおそらく同じなのだろう。
理屈を超えた“野蛮さ”は、出会ってしまうのだ。
伊藤秀倫(いとう・ひでのり)
1975年生まれ。東京大学文学部卒。1998年文藝春秋入社。「Sports Graphic Number」「文藝春秋」「週刊文春」編集部などを経て、2019年フリーに。さらに勢いあまって札幌に移住。著書に『ペットロス いつか来る「その日」のために』(文春新書)がある。
