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八百長選手の実名とその手口
マスコミに追われた永易は地方に身を隠していたが、翌1970年(昭和45年)4月、週刊誌のインタビューに答え、八百長選手の実名とその手口を毎週暴露したため、球界は大騒ぎになった。
特に、ファンにとって衝撃だったのは、入団以来5年で99勝という成績をあげ、1年目に新人王、3年目には最多勝のタイトルも獲得していた西鉄ライオンズの若きエース・池永正明(当時23歳)が八百長に関与しているというものだった。
池永はこう弁明した。
「先輩の田中勉(西鉄ライオンズから中日ドラゴンズに移籍)から預かってくれといわれたカネを押入れにしまってはいたが、カネは使っていないし、もちろん八百長は絶対にしていない」
だが、100万円のカネを受け取ったことや敗退行為を誘われたと報告しなかったこと。そして1969年(昭和44年)のシーズンに、短いイニングでKOされた「疑惑の試合」が2試合あったことなどから、日本野球機構は「八百長をしなかったという証明にはならない」と判断。池永に永久追放処分が下された。
