自由な本だ。とりわけ「この俳優とメシ食いに行くならこんな店」という妄想コラムを楽しんだ。「かんそう」という名の著者はなんのしがらみもなく、自由に空想の翼を広げ、書いて、書いて、書いて、書いている。
評論でも批評でも研究でも取材記事でもない、ひとりの受け手が様々なエンタメに触れて感じたことを10年もの間、好きにブログに綴り続けたなかから選りすぐられた「感想」の数々。その作品や人物が好きな読者にはたまらなく楽しい。
間宮祥太朗三部作のたたみかけるリズムも最高だ。
私は取材ライター出身のため、権威者であろうと気鋭の書き手であろうとあまりに知識不足な文章や自分本位な文章にはやや厳しい目を向けてしまうのだが、熱と文章力で勝負しているかんそうさんの文章にはそのお姑センサーは働かない。
かんそうさんは著書のなかで「批評や考察に比べて感想は舐められている」と書く。「かんそう」という儚げな平仮名は、舐められ状態を体現するにはぴったり。でも、じつは象が乗っても大丈夫な頑丈な書き手ではないだろうか。
「感想」という概念はなかなかにしたたかである。それが批評や評論よりも社会において軽視されるという指摘のごとく、読者は評論家や批評家を名乗る者が書いた文章を「感想」と断じることで上目線になれる。逆に、書き手は自分の意見がことを荒立てることがないように「私の感想に過ぎません」と下手に出ることで防御ができる。いずれにしても書き手が決して上に立つことがないのがいい。「へりくだる」という日本人の心がそこにある。
圧倒的に自己規定したペンネームを掲げることで退路を絶ち、ひたむきに感想を書き続けることで社会の固定観念に全身全霊で抗う。
平仮名には「乾燥」「完走」「間奏」……といくらでも当てはめることができる。だからたとえ感想からはみ出したものを書いても「感想」ではなく「かんそう」だからと逃げられる。
いまや、何を書いても怒られ、分断を生み、ネガティブな現象を呼び起こしてしまう殺伐とした世界を「感想」で生き抜くかんそうさん。ただし、興味のないものを見たいと思わせる啓蒙力は薄め。共通認識がないと読みづらいところもある。それでいい。それがいい。好きな人だけ集まって楽しむささやかな場はネットが拡張するに従って減ってゆく。ネットだって本来は書籍という権威から解き放たれた自由な語り場だったはずで。その貴重な場所から出現したかんそうさんの文章はささやかな好きを共有する楽しみを思い出させてくれる。
かんそうさんは、無理に言語化することはないとか、誰でも感想は書けるとか説く。でも当人はどろりとした鉄のごとき感情を熱いうちに鮮やかに打つ名刀鍛冶のような書き手だと思う。だからいまやレビューやコラムもたくさん書いている。
かんそう/1989年北海道生まれ。2014年から個人ブログ「kansou」を運営し、全はてなブログ内での読者登録数6位。著書に『書けないんじゃない、考えてないだけ。』。
きまたふゆ/東京都生まれ。フリーライター。ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関する取材やレビュー、ノベライズ執筆を行う。
