『馬・車輪・言語 文明はどこで誕生したのか 上』(デイヴィッド・W・アンソニー 著/東郷えりか 訳)

 最初私は、世界の文明の不均衡な発展がなぜ生じたのかを論じた、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』と同類の本かと思って気軽に書評を引き受けたのだが、後悔することになった。さっと読んで理解できるほどヤワな本ではなく、著者が積年研究を続けてきた歴史言語学・考古学・人類学・神話学など文明基礎論の分野の知見を縦横に駆使しつつ、ユーラシア全域の諸言語や地理などの研究成果を下敷きにして、「文明はどこで誕生したのか」に解答を出した労作であるからだ。二〇〇七年に上梓されたが、既に古典の地位を獲得しているそうで、実に読み応えがあった。

 著者の研究の焦点は、今は既に失われてしまったインド・ヨーロッパ語の母言語である、「印欧祖語」の原郷を探り、文明が誕生した地点を確定することにある。人類史に残された難問で、彼はそのヒントを印欧祖語において使われていた「馬」「車輪」という「言語」に求める。そこから最初の文明の形態がいかなるものか、やがて文明が周辺に広がり、その過程で言語がどのように変容して印欧諸語へと分岐していったかの歴史を詳しく追いかけていく。考古学的資料がほとんどない中、インドの古典『リグ・ヴェーダ』の一節に注目するというような歴史言語学の手法を有効に活用している。

 印欧祖語は紀元前四五〇〇年に使われていたが、その後さまざまな娘言語へと分化して前二五〇〇年頃には死語になっていた。さすれば、印欧祖語が使われていた原郷こそが文明が誕生した土地と見なすことができるだろう。その地での人間の生き様を詳しく調べれば、文明誕生の社会的条件が何であったのかがわかるのではないかと考えたのだ。

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 著者は、印欧祖語の原郷は黒海とカスピ海の北のポントス・カスピ海ステップとして知られている草原地帯であると推測する。その理由は、ステップとはどこまでも続く草の海であり、草原を開放した鍵は「馬」に騎乗して生活空間を拡大したことにあり、家畜化に成功した草食動物である牛と羊によって草を消化させ、人間に役立つ製品に変えるようになったこともある。さらに馬に乗って牛と羊を牧畜した人々がやがて「車輪」を手に入れ、テントや備品を四輪荷車(ワゴン)を使って運ぶようになり、世界をいっそう拡大させた。馬の家畜化と幌付きワゴンの発明は、ユーラシアのステップを生産的な場に変え、大陸に広がっていく条件を整えたのであった。

 片々たる証拠から人類の歴史を組み上げていく緻密な推理力に脱帽した。

David W. Anthony/ハートウィック大学考古学・人類学教授。東欧から中央アジアにかけての先史文化の専門家。編著に『The Lost World of Old Europe: The Danube Valley, 5000-3500 BC』がある。2010年、本書でアメリカ考古学協会賞を受賞した。

いけうちさとる/1944年、兵庫県生まれ。天文学者、宇宙物理学者。著書に『科学者と軍事研究』『科学者と戦争』など多数。

馬・車輪・言語(上) (単行本)

デイヴィッド・W. アンソニー(著),東郷 えりか(翻訳)

筑摩書房
2018年5月29日 発売

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馬・車輪・言語(下) (単行本)

デイヴィッド・W. アンソニー(著),東郷 えりか(翻訳)

筑摩書房
2018年5月29日 発売

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