1985年、史上最年少の19歳でショパン国際ピアノコンクールを制したスタニスラフ・ブーニンは、3年後にソ連から西ドイツに亡命した。その後も波乱に満ちた彼の人生を支えたのは、西ドイツで出会った妻の中島榮子さんだった。
ジャーナリストとして亡命直後のブーニンを見つけ出した中島さんは、ブーニンの日本での仕事を手伝うようになり、その後子どもを授かるが……。『週刊文春WOMAN2026春号』より一部を抜粋・編集し掲載する。
◆ ◆ ◆
法的な結婚はせずに1児をもうけた
私はケルン、ブーニンと母親はハンブルク、その距離は約420キロ、車で3時間半ほどの離れた町で暮らしていました。92年に子どもを授かった時、ブーニンに相談するまでもなく、私は産もうと決めました。
問題は産んだ後のことです。ブーニンのマネジメントもあるし、ジャーナリストの仕事も続けたい。すると、日本にいる姉夫婦が手を差し伸べてくれました。姉は子どもの父親が誰なのかも聞かず、生まれたら面倒を見るから、帰国して産むようにと言ってくれたのです。
そもそもブーニンと私は、法的な結婚を考えることは全くありませんでした。ともに外国人で、ドイツで結婚するには独身証明書が必要だったということもあります。母国にも妻がいたというような重婚を防ぐためでしょう。しかし、彼がそれを用意するには、モスクワに一度戻らなくてはなりません。
誕生したのは男の子です。出産後、しばらくは息子がいる日本の姉の家とドイツを行ったり来たりしていましたが、1歳8カ月の時にドイツに呼び寄せ、母子2人の生活をスタートさせました。
ドイツでは当時から私のようなシングルマザーは珍しくありませんでした。「一日おかあさん」の資格を持つ人が子どもを最大5人まで預かってくれて、仕事の都合で急に時間を延長してほしい場合もフレキシブルに対応してもらえました。
私は息子と過ごす時間が楽しくて仕方なかった。その様子を見たブーニンが「僕の居場所がなくなってしまう……」と危機感を覚えたのでしょう。ハンブルクにいるよりケルンの私たちと過ごす時間が目に見えて多くなっていき、やがてケルンの家に転がり込んできました(笑)。


